旧水口城は、江戸期に築城された水口城の東、標高283mの古城山にあり、水口岡山城と呼ばれている。
水口岡山城
古城山は新水口城から東側1400mのところにあり、水口城資料館の2階からも良く見える。
水口岡山城は1585年、羽柴秀吉の命により中村一氏が甲賀郡の支配の拠点として築き、6万石の大名として入城したという。
中村一氏は、NHKの大河ドラマ「功名が辻」に出てくる孫平次のことで、1573年頃には秀吉から長浜で200石を受けていたので12年間で300倍の加増があったことになる。
新水口城の大手門
1590年、北条攻めの軍功で、駿府14万石を拝領し水口から移ったが、関が原の直前に病没している。
子息の一忠は、関が原で東軍に属して戦い、米子17万5千石を与えられたが、1609年急死したために中村家は僅か2代で断絶している。
本丸から見た門の裏
中村一氏が駿府に転封となった後には増田長盛が入城し、5年後に長盛は大和郡山城に20万石で移っているが、大和郡山城のことは以前このブログに書いたことがある。
1595年には豊臣家5奉行の一人であった長束正家が5万石(後に加増され12万石)で水口岡山城に入城、5年後の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、関ヶ原に布陣したが戦闘には参加せず水口岡山城に敗走したという。
本丸にかかる橋
その際水口岡山城は、長束正家を追ってきた池田輝政に攻められ、正家が自ら放った火により1600年に落城したために廃棄されている。
1634年、将軍家光の上洛用に築城された新水口城は、江戸期家光が1度利用しただけでその後の将軍に利用されることが無かったという。
水口城資料館の中の展示
従って正徳年間(1711~1715年)には矢倉と門、土塀を残して御殿は撤去されたらしい。
明治になってからの廃城令によって水口城は廃城となり、石垣は近くを通る近江鉄道(1900年に彦根~貴生川が開通)の線路工事用として転用されている。
半分埋め立てられた堀
それ以降、旧本丸は学校敷地となり、現在は水口高校の運動場として利用されている。
埋め立てられた堀の向こうは高校のグランド
昭和になって水堀埋め立てなどの意見も出されたが、1972年に滋賀県の史跡に指定されたのを契機に保存整備への関心が高まったために石垣の遺構が残る出丸部分を整備修復し、水口城資料館が1991年に開館している。
この資料館は、同城矢倉の往時の姿を模したもので、木造2層2階建ての破風を凝らしたものであるが、江戸期には無かった建物である。
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