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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



藤原京には、天武天皇が妻(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立した本薬師寺(698年頃に伽藍が完成か?)があり、後に西の京に移転されて薬師寺(730年頃完成)となったことは以前のブログで紹介したことがあります。

再建された薬師寺金堂(正面26,6m、奥行15,5m、高さ20m)



新薬師寺は、747年、藤原不比等と県犬養三千代の娘であった光明皇后が夫の聖武天皇の病気平癒を祈願して創建されたと伝わっています。



新薬師寺は、最盛期に約440メートル四方の寺地を有す大寺院だったようですが、創建の正確な時期や事情について正史に記載がないのが謎とされています。

新薬師寺の築地塀と東門(重文)



しかし、756年に作られた正倉院の「東大寺山堺四至図」という絵図に、現在の新薬師寺の場所に「新薬師寺堂」とあるので、創建から9年後に存在していたことはほぼ間違いないと想定されているようです。

新薬師寺の南門(重文)



2008年、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査があり、現在の新薬師寺の西約150メートルから金堂跡とみられる正面54メートル、奥行27メートルという遺構が出土しています。

現在の東大寺大仏殿(正面57m、奥行50m)



この規模は、西の京の薬師寺の2倍に当たり、平城宮大極殿をも上回り、現在の東大寺大仏殿に匹敵する大規模なもので、藤原不比等の娘だった光明皇后の力を示しているものと思われます。

復元された平城宮大極殿(正面44m、奥行19,5m)



創建時の新薬師寺は、大規模な金堂、東西両塔など七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院でしたが、創建からわずか33年後、西塔への落雷で多くの堂宇が焼失しています。

鐘楼(重文)



現在の本堂は、本来の金堂ではなく、その火災から焼け残った食堂(じきどう)を転用したものと考えられています。(新薬師寺の栞より)

本堂(国宝)



1180年、平家による南都焼き討ちで、東大寺、興福寺の大伽藍は焼失しましたが、創建から433年を経た新薬師寺本堂は焼け残っているので、当時の平家が見過ごすくらいに衰退していたのでしょう。

観音堂(重文)



本堂以外の主要建物は、鎌倉時代に入寺した華厳宗中興の祖明恵によって復興されたもので、重要文化財に指定されています。

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