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藤原宮の「藤原」は、689年の「高市皇子、藤原の宮地を観す」という記録から、以前から大極殿周辺の土地の名称だったようです。

再建された平城宮大極殿



当時の有力者に右大臣藤原不比等(659~720年)がいましたが、彼の上位にあたる左大臣として石上麻呂(640~717年、物部氏)がいた関係から、藤原不比等にちなんで藤原宮と命名されたとは考え難いと思います。

藤原宮跡



日本書紀には新益京(あらましのみやこ)と記載されている藤原京ですが、藤原宮のあった京(みやこ)という意味で、藤原京と呼ばれるようになったようです。

藤原宮南側から見た耳成山



藤原不比等は、文武天皇(683~707年)の夫人(当時皇后は、皇族に限られていたので皇后ではない)として娘(宮子)を入れ、宮子は藤原京で聖武天皇(701~756年)を生んでいるので、有力貴族だったことは間違いないでしょう。

藤原宮南側から見た天香久山




平城遷都後の藤原不比等は、娘(光明子701~760年)を皇族以外から初の皇后として聖武天皇(外孫)に嫁がせることに成功、以降藤原氏から皇后を出す前例を作ったことで、藤原氏の勢力が急速に拡大したようです。

畝傍山と大極殿跡地



藤原京の範囲は、東西5,3キロ(10坊)、南北5,3キロ(10条)とする説が有力で、この説通りとすれば平城京にほぼ匹敵する面積となります。

朱雀大路跡



また、当時の藤原京の総人口は、木下正史氏の「藤原京」によれば、3~5万人と推定されているそうです。

再建された平城宮朱雀門(北側)



東西927m、南北907mの大垣によって囲まれた藤原宮の中央、大極殿から南に延びる朱雀大路の幅は、側溝中心間で24m、(平城京では74m)南端には朱雀門(平城宮と同じ間口25m、奥行き10m)があり、その遺跡も残っています。

再建された平城宮朱雀門(南側)



藤原宮の大垣に使った1200本の柱は、すべて抜き取られ、平城京に移設されたことが発掘で判っているので、藤原宮の建物も、その多くが平城宮に移設されたのではないでしょうか。

参考文献(藤原京:木下正史著)


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