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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪市内と堺市の間には大和川が流れていますが、この川は江戸時代まで藤井寺付近から北に向かって流れていて、この場所にはありませんでした。



従って、大坂夏の陣の際、真田勢の猛攻を受けた家康は、本陣のあった茶臼山から大和川に邪魔されることなく、一気に堺(南宗寺)まで後退したのです。

大和橋



さて、大和川が付け替えられてから現在まで、旧紀州街道を通って堺に入るには、大和橋を渡ることになります。



旧紀州街道が堺市に入ると、両側に虫小窓のある古い民家がまだいくつか残っていますので、昔の雰囲気が伝わってきます。



紀州街道が環濠都市堺に入るとすぐに桜之町ですが、町に入ったすぐの場所に風間寺という小さなお堂がありました。



由緒書を読むと、大坂の陣(1615年)の後、堺奉行長谷川藤広の部下で地割奉行となった風間六右衛門が、帰依する日蓮宗に有利となるように地割したと訴えられ、この地で自刃したのを供養するお堂だそうです。



この桜之町、北旅籠町には20~30軒の鉄砲鍛冶屋敷があり、江戸期を通じて鉄砲の製造を続けていたようです。



その鉄砲鍛冶を統制していたのは芝辻理右衛門家と榎並屋堪左衛門家で、両家は紀州街道を挟んでこの桜之町に向かい合ってあっていたようです。

芝辻理右衛門家の跡地にある包丁製造所



堺で製造した鉄砲の試射場を示す寛文四年(1664年)の年号のある「放鳥銃定限記」と書かれた石碑が、1914年に運河の掘削工事中に見つかっています。



現在、この石碑は新たに作られた大きい石碑の中にはめ込まれて七道駅前に置かれ、その右側には鉄砲鍛冶射的場跡の石碑も置かれていました。


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