現在は車社会である。どなたもご存知であろう。人々の車に対する入れ込みようはほとんど信仰に近い。車についてはいろいろな議論があるけれど、経済性は本質的な問題ではない。イメージが決め手である。アメリカでは、車は体を表すのだ。ガレージの車を見れば思い当たる節があるはずだ。
思うに、時代の先端を行く車はおのずから機械工学の傑作でなくてはならないはずである。贅沢であって、なおかつ、実用的で、便利で、安上がりなのがいい。...つまるところ、私が求めているのは外見ではなく、実感である。単に乗り心地が好い、悪いの問題ではない。車で走るというのはこれだ、と言える充実感である。
子供の頃、ある夏の夕暮れに、叔父のロスコウが運転するくたびれきったフォードのピックアップトラックの荷台に乗って家に帰った事がある。8歳になる二人の従兄弟が一緒だった。泳ぎに行った帰りで、私たちはスペアタイヤに腰掛けて、古いキルトを肩にはおり、年老いた犬に体を摺り寄せて温まった。そして、チョコレートクッキーを頬張り、メイスンの魔法瓶からおいしいミルクを飲み、みんなして『壁にビールが九十九本』という歌をありったけの声で際限もなく詠い続けた。月がのぼり、星降る空から神がわたしたちを見守っていた。家に帰れば、道はそのまま夢路へと通じている。
そう、これが車に乗ると言うことだ。これでなくては楽しくない。わたしはそういう人間だ。どなたか、いいセールスマンをご存じなら、お教え願いたい。
All I really need to know I learned in kindergarten.
(人生に必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ、より引用)
by: Robert Fulgham
気温35度の真夏日のニューヨークの午後、クーラーの利かないロクマルの窓を開けて街を流す、汗も流す。
長距離は勿論、ちょっとそこまでの短距離であっても運転する毎に気持ちが踊るのが我がロクマルでの走りです。ロクマルは単なる移動機械、あるいは便利な道具だけではなくて、走る毎にいちいち感動を与えてくれる媒介である。ロクマルの走りはガソリンを燃やすというエネルギー消費ではあるが、運転する僕にとってはロクマルを走らせる事はエネルギー充電となっている様子。ロクマルに乗ると言うことは真夏日にエアコンが無くても楽しい事なのだ。