万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

現時点の民主主義の制度化は初期段階に過ぎない

2024年04月05日 14時33分48秒 | 統治制度論
 組織の基本モデルは、独裁のみならず、今日の諸国家における民主主義の制度化が、如何に不十分で初期的段階に過ぎないのかを説明します。否、今日、あらゆる諸国の国民を苦しめ、悩ませている問題の多くも、未熟な統治制度に起因しているのかも知れません。政治腐敗や権力の私物化、さらには、グローバルレベルで進行している世界権力による国家主権の侵害等も、元を訊ねれば、その原因は国民の声が届かない現行のシステムにあるとも言えましょう。

 統治機能の起源とは、分散、かつ、集団を成して生きてきた人類のニーズに求めることができます。危険に満ちた自然の中で生きてゆく、あるいは、他の集団からの攻撃に対処するためには、集団が結束して自らの安全を護る必要がありましたし、公共物の建設などは、資材や労力を分かち合いながら皆で協力しながら行なう必要もありました。また、個々の生命や身体等が相互に護られなくては、暴力が支配する‘この世の地獄’となってしまいます。統治機能とは、人々が生きてゆく上で必要不可欠であり、それは、一つではなく複数存在していたのです。統治の諸機能を人々に提供するために要する権力こそ‘統治権力’と言うことになりましょう。

 統治の諸機能の起源を振り返りますと、民主主義とは、机上の空論ともなりかねない特別の価値ではなく、理に適った当たり前のことなのです(民主主義は始まりであって終わりでもある・・・)。ところが、一端、統治権力が成立しますと、それを誰が行使するのか、という問題が生じます。古今東西を問わず、この統治権力は、実力、通常は武力に勝る者によって握られるのが常でした。この現象を、提案、決定、実行、制御、人事、評価の機能から成る組織の基本モデルに照らしますと、人事権は、力によって特定の個人により掌握され、決定権は、実力で統治者となった人物によって凡そ独占される形となります。そして、実行は、決定権を握る人物の配下の者達が務めたのでしょう。その一方で、当時にあっては、他の組織上の諸機能、即ち、提案、制御、評価については、その存在は意識にさえ上っていなかったかも知れません。つまり、人類史における統治システムは、昨日の記事で掲載した独裁モデルと同様に、決定機関と実行機関の二者からなるシステムが大半を占めてきたのです。

 統治権が建国や王朝の始祖からその子孫に受け継がれてゆく世襲制度もまた、統治者の座の獲得が武力に依らないという点において違いはあるものの、人事権は決定者、あるいは、その近親者の手にあり、両者は融合しています。民主主義が、何より先に選挙制度において制度化されたのも、人事権を介して決定権を国民の元に戻したいという、人々の願望があったからなのでしょう。そして、それは、決定権と人事権の分立をも意味したのです。

 かくして民主的な普通選挙の導入は、民主化のメルクマールとされたのですが、同制度をもって民主主義が十分に実現しているのか、と申しますと、そうではないようです。何故ならば、決定権をはじめ、提案や制御、そして、評価の機能に関する権限については、国民は蚊帳の外に置かれているのが現状であるからです。決定権については、国民投票制度が導入されている国は僅かですし(全ての政策や法案について国民投票に付すことは不可能であっても、国民全員が関わる重大な決定については国民投票が相応しい・・・)、提案権に関しても、たとえ国民発案の制度が設けられていても、この制度はほとんど機能していません。国民が提案し得るルートの欠如は、民主主義を実現する上で致命的な欠陥となりましょう(国民のニーズに応えることができない・・・)。また、国民による制御の相対的な脆弱さが、今日、権力の濫用や私物化、並びに、腐敗を招いていることも疑いようもなく、国民の評価が政治にフィードバックされる経路もありません。しかも、肝心の人事権さえも、不正選挙疑惑が持ち上がるように、常に、グローバルな独裁体制の樹立を志向するマネーパワーに脅かされているのです。

 組織の基本モデルに照らしますと、現行の統治機構の構造的な諸問題が自ずと明らかになってまいります。民主主義の制度化は、今日、初期的段階に過ぎないのです。このように考えますと、同モデルは、国民が未来に向けて国家体制や統治機構の改革や改善を志すに際して、その進むべき道をも示しているのではないかと思うのです。

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