万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

メビウスの輪を解く方法とは?-皇室の伝統と革新

2019年10月19日 13時48分42秒 | 日本政治
 近代以降、メビウスの輪戦略は、世界各地で猛威を振るってきたように思えます。進化しているように見えて退行し、善のはずが悪に落ちているという…。もちろん、意図せずして逆の結果を招くのも世の常なのですが、意図的に逆の方向に誘導する手法は悪意のある詐術という他ありません。そこで、人類は、自らを救うためには、まずはこのメビウスの輪を解く方法を見つけ出す必要があります。そこで本記事では、22日の即位の礼を前にして、皇室における伝統と革新についてメビウスの輪から考えてみたいと思います。

 明治維新を思い起こしますと、そこにも、メビウスの輪の可能性を見出すことができます。王政復古の大号令と共に敢行された明治維新は、古代の国制への回帰という復古主義を看板に掲げながら、その実、日本国を西欧化して近代化させる大変革となりました。英語ではrevolutionと表現されるように、‘維新’が過去を否定する‘革命’の一種であったことは疑いようもありません。しかも戻るべき古代の国制とは唐に倣って一時的に導入された中央集権体制であり、権力と権威を分ける二元体制を日本国の伝統的な政体であるとしますと、明治維新には伝統破壊の側面が強いのです。つまり、明治のケースは、過去に戻ったはずが近代へと進み、日本の固有性を強調しながら外来志向が強いという、メビウスの輪として描くことができるのです(但し、明治時代の人々は多分に理性的であったことから、明治維新を機に統治制度や教育制度等の整備、並びに、産業の振興といったプラスの要素を取り入れており、明治維新には光と影がある…)。

 明治維新に組み込まれてしまったメビウスの輪の構図は、今日の日本国の保守主義に混乱をもたらす原因としても指摘できます。おそらく、倒幕派の人々は、日本国民に新たな体制を受け入れさせ、日本国を近代国家として纏めるための手法として、メビウスの輪戦略を採用したのでしょう。たとえ、明治維新が海外勢力によって仕掛けられたものであっても、日本古来の‘正しい在り方’への回帰であるとアピールすれば、日本国民は安心しますし、その支持をも容易に得られるからです。しばしば、明治維新は、アジアにおいて日本国が植民地化されずに独立を保ち得た偉業として称賛されていますが、メビウスの輪戦略の存在を知れば、この評価も怪しくなります。‘おだて’も、同戦略の基本戦術の一つなのですから。‘保守’と申しましても一括りにすることはできず、‘保守’には立憲君主制を支持する明治派と明治維新以前に伝統を求める非明治派との両者が混在しているのです。

 今般の即位の礼においては、一先ずは、それが明治期に創られたものであれ、‘伝統’が強調され、政府もメディアも‘国民あげての祝賀ムード’を造ろうとしています。しかしながら、前例があるだけに、こうした‘上’からの同調圧力に不安を感じたり、身構える国民も少なくないはずです。国民が知らない間に皇統も失われ(出自不明者の血脈が流れているとすれば、‘表看板’が万世一系ですのでこれもまたメビウスの輪に…)、かつ、その背後には、外国勢力や創価学会といった特定の新興宗教団体が潜んでいるリスクさえあるのですから。とりわけ、新天皇の即位以降、中国が露骨なまでに日本国の皇室に期待し、持ち上げている点も気になるところです。今日の日本国も、メビウスの輪に嵌められそうになっているのかもしれません。そして、独裁者であれ、誰であれ、絶対的な権威を纏う超越的な人物をトップに据える国家体制は全体主義との間に親和性が高く、国民の自由にとりましては重大な脅威ともなるのです。

 それでは、どのようにすれば、メビウスの輪から抜け出ることができるのでしょうか。まずは、仕掛ける側がその行く先として描くヴィジョンを鵜呑みにするよりも、現実に起こり得る結末や結果を合理的に予測する必要がありましょう。行く先が違っていれば、即座にその‘バス’から降りる、あるいは、行く先を変更する必要があります。また、伝統と革新の観点からすれば、アピールされている‘伝統’が本物であるのか、客観的な立場から史実を探求すると共に、科学的検証を行う態度も重要です(皇室の場合、皇統に疑義が生じている…)。特に、変革を訴える‘保守’が現れた時には注意を要します。‘伝統’も時代と共に変わるとは申しますが、その本質的な部分までも変えますと、‘革新’以外の何ものでもなくなるからです。時代に合った、即ち、物事を合理的に考える人々が増えた時代に合った姿を求めるならば、国制上の地位についても天皇の役割は古来の祭祀にとどめ、政治と切り離した上で縮小の方向に動いた方が国民の理解を得られたかもしれません。

 皇室をめぐっては、左右を問わず、自由な議論が行われているとは言い難く、こうした息苦しい言論空間を創り出すことこそ、全体主義を志向するメビウスの輪を仕掛ける側の狙いの一つなのでしょう。天皇の代替わりが、日本国民の閉塞感を強めているとしますと、令和という元号もまた、政府の説明とは逆の方向へと向かうメビウスの輪と化すかもしれません。そして、こうした危惧が強まればこそ、メビウスの輪から抜け出すために最も必要とされるのは、神話にあってしばしば呪いを解く勇者が示すような、人々を救うために悪しきタブーを破る勇気なのではないかと思うのです。

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