DX(デジタル・トランスフォメーション)とは、デジタル技術を用いることで既存の製品やサービス、並びに、ビジネスモデルそのものを変革し、競争上の優位性を獲得する企業戦略を意味します。一方、GX(グリーン・トランスフォメーション)の定義とは、内閣府によれば、「産業革命以来の化石燃料中心の経済・社会、産業構造をクリーンエネルギー中心に移行させ、経済社会システム全体の変革」ということになります。共に‘X’、すなわち、トランスフォーメーションと表現されていますので、両者は、同一の方向性をもつ流れと見なされがちです。実際に、国連や各国政府、そして、世界経済フォーラムなども、デジタル化と地球環境問題は、グローバル化時代を牽引する両輪の如くに扱っています。しかしながら、よく考えても見ますと、この二つのトランスフォーメーションには、役割分担とでも言うべき不整合性が見受けられるのです。
この不整合性は、生成AIの普及に伴う電力使用量の増大が問題視されるにつれ、顕在化してきたものです。現在、日本国内でも、各地に生成AIの利用拡大に備えたデータセンターが建設されていますが、DXを進めれば進めるほど、当然に必要とされる電力量は増大してゆきます。生成AIが要する電力量は、単純な検索等とは比較にならないほど大きいそうです。電力需要の増加は、電力供給量の増加と同義となりますので、十分な電力を供給するためには、さらなる発電装置の建設を要することは言うまでもありません。この側面だけを見れば、DXとGXとの関係は歩を揃えた比例増加となりますので、どこにも矛盾や不整合性は見当たらないように思えます。デジタル化の普及は再生エネや水素等の非化石燃料による電力供給を増やすこととなるからです。
デジタル産業が伸びればグリーン産業も栄えるという両者の間に好循環が見てとれるものの、地球温暖化ガスの排出量を抑制するというGXの原点に立ち返りますと、ここに、解きがたい問題が現れることとなります。それは、GXそのものが、その掲げる目的に反して温暖化ガスの排出量を増加させてしまうという逆作用の問題です。実際に、地球温暖化問題がグローバル・イシューとして登場してきた1980年代以降、温暖化ガスの排出量は増え続けています。京都議定書やパリ協定があろうがなかろうが、全く、削減効果は見られませんでした。この点、GXは、太陽光パネルといった新たな発電装置の大量生産や水素ステーションを含むインフラの大規模な新設を要しますので、それ自体に自己矛盾があります。そして、電力消費量を増加させてしまうDXは、さらに電力消費量を増やしてしまうのですから‘反グリーン’と言わざるを得ないのです。
仮に、温暖化ガスの錯塩を最優先課題として据えるならば、DXの流れを抑え、生成AIの普及にも歯止めをかけるのが筋です。むしろ、ITやAIの利用は計算や分析・解析機能等に限定し、知的思考や創造的な活動領域にあっては、人の能力を活かした方が、余程、環境に優しいと言えましょう。しかも、近未来のデジタル社会にあって人々が幸福であるのかどうかも怪しい限りなのです。それでは、自己矛盾を抱えながら、DXによってマッチポンプ式にGXが進められているとしますと、その意図はどこにあるのでしょうか。
デジタル化とは、その使用に際してシステマティックな情報収集を可能とします。このため、デジタル化された社会とは、個人情報を含むあらゆる情報が管理され得る社会とも言えましょう。しかも、一端、電子システムが導入されますと、人々は、その使用を拒否することは難しくなります。世界に先駆けて中国において出現したデジタル社会は、デジタル技術による徹底した国民の情報管理をもたらしており、デジタル技術の負の側面を人類に知らしめています。政府に対する信頼感が低下している今日、自由主義諸国にも同リスクは潜んでいることは、既に多くの人々が警戒するところでもあります。
その一方で、GXは、自由主義経済の利点ともされる‘資源の効率的分配’など何処吹く風で、あらゆる資源をGXに集中させてしまいます。冒頭で紹介しましたように、「経済社会システム全体の変革」を実現させるには、巨額の資金や資源等を投入しなければなりませんし、資源は有限ですので、国民生活にしわ寄せが来ることは必至です。現に、電力料金の急激な値上がりが起きており、DXによってさらに電力消費量が増えれば、国民は、スマホは手にしてはいても、電化製品さえ使えない状況に陥るかも知れません。結局、かつての軍事技術だけが突出したソ連邦のように、国民の生活水準が低下する一方で、国民管理手段としてのデジタル技術とそれを可能とする新エネルギー産業のみが歪な形で発展をしかねないのです。
DXとGXの行き着く先に何があるのか、人類は、今一度、立ち止まって考えてみる必要がありそうです。二つの‘トランスフォーメーション’は、世界権力が人類を管理社会へと追い詰める、あるいは、追い込むための作戦の一環であるのかも知れないのですから。