万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

経済の戦争責任が問われない不思議

2019年02月24日 11時54分55秒 | 国際政治
戦争と言えば、兎角に政治家に責任がある、あるいは、専ら政治分野の問題と決めつけられがちです。ニュルンベルク裁判でも、東京裁判でも、政治家が戦争の全責任を負って絞首台に立つこととなりました。しかしながら、人類の歴史を振り返りますと、特定の利益団体の思惑、あるいは、経済上の利権争いが戦争の原因となった事例は決して少なくはありません。経済的要因を捨象して戦争の全体像を理解することはできないように思えるのです。

 人類は二度の世界大戦を経験しましたが(ナポレオン戦争を含めて3回という説もある…)、その起源を辿ってゆきますと、まずは、ポルトガルのエンリケ航海王子のセウタ攻略に始まる大航海時代に行き着くことできます。その後、西欧列強は、全世界に多角的な貿易網を巡らすと共に、現地諸国のインフラ等のコンセッションを手に入れ、徐々に統治権をも侵食して行きます(中南米大陸は直接的に植民地化…)。その典型例はイギリス東インド会社であり、後に大英帝国に吸収されて解散となるものの、民間の株式会社でありながら、独自の軍隊までをも擁する地域支配組織としてアジアに君臨するのです。

世界史の教科書では、局地戦から世界大戦へと拡大した主たる理由は、国家間の複雑に絡み合った軍事同盟関係に求められ、世界を二分する連鎖的な陣営化こそが主因とされています。表面的な動きの説明としてはその通りなのですが、西欧列強に拠点を置く国際経済組織の利権、とりわけ、金融財閥の存在を抜きにしてこの現象を説明することは困難です。金融財閥は、政府に対して融資したり、国債の引き受けにも応じましたし(独占的に銀行券を発行する中央銀行の地位は政府貸付によって得た…)、民間企業に対しても海外進出のための貸し付けを行う立場にありました。いわば、全世界に利権が散らばっていたのであり、植民地主義の時代には、政府と二人三脚、あるいは、政府を巧みに操りながら経済的利益、並びに、その目的を達成するための権力を貪欲に追及していたのです。

資本主義対共産主義の対立構図が見せかけに過ぎないとされる理由も、結局は、両者とも、利権の独占や一方的な人類支配に行き着くからであり、フランス革命に際してのスローガンであった‘自由、平等、博愛’も、ロシア革命が掲げた‘権力を人民の手に’も、人々の理想を求める心理に訴え、‘大衆’を動員して暴力に駆り立てるための方便に過ぎずなかったのでしょう。戦争も、革命も、自らが望む方向に人類を誘導する手段であり、石原莞爾が信じていたとされる‘最終戦争’も、その総仕上げなのでしょう。そして、グローバリズムの時代とされる今日にあっても、見た目はよりソフトになったとはいえ、自由で多様性に富んだ社会といった理想郷を掲げつつ、その実、全人類を自らの支配網に追い込んでゆく米中両IT大手の露骨なまでの行動は、まさしく両者が同根であることを示しているようにも思えるのです。

先の二度の世界大戦も、金融財閥の行動を含め、経済的な視点から見直せば、より正確なる戦争要因の分析が可能となるかもしれません。そして、第三次世界大戦を事前に防ぐためにも、これまで‘陰謀論’として軽ろんじられてきた経済的要因に注目し、政治の背後に隠れて私益を漁ってきた金融財閥の戦争責任の如何を含め、過去の世界大戦の全容を詳細に解き明かすべきなのではないでしょうか。戦争責任とは、政治家のみにあるのではなく、別のところにあるかもしれないのですから(所謂‘歴史修正主義’の批判とは、責任追及を逃れるための戦略かもしれない…)。人類のより善き未来のために真に変わるべきは、変革を迫られる既存の社会ではなく、戦争要因ともなってきた巨大な国際経済組織ではないかと思うのです。

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