19世紀中葉、イギリスは自国を中心とした自由貿易体制の絶頂期を迎えます。セポイの反乱後の1858年に東インド会社が解散され、最終的にインドがヴィクトリア女王に献上されたのは、同社の残務整理が完了した1877年のことです。かくしてイギリスはその版図を全世界に広げ、1931年にウェイストミンスター憲章の下でイギリス・コモンウェルスに衣替えするまで、大英帝国は栄華の時代を歩み続けてゆくのです。
大英帝国の最盛期は、同帝国に君臨したヴィクトリア女王の名に因んでヴィクトリア時代とも称されています。同時代に培われた文化は、今日までイギリスに典雅で優美なイメージを与えてきました。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読みますと、誰もがヴィクトリア朝の生活様式のエッセンスに触れることができます(もっとも、同作品は、キャロルの批判精神が込められた風刺的作品であったとも・・・)。挿絵の入った絵本やかわいらしい子供服、きちがい帽子屋さんの賑やかなティーパーティー、白ウサギが布告する法廷、ハートの女王が主催するクリケット大会などなど・・・。イギリス人は身なりをスマートに整え、礼儀正しく、道徳心の高いジェントルマンであるとするイメージも、ヴィクトリア時代に求めることができましょう。そして、ロンドンには、今日でもヴィクトリア時代の名残をとどめる壮麗な街並みが残されています。
まさしく‘一等国’というイメージなのですが、同国の繁栄の原動力となったのが、産業革命を背景とした自由貿易体制であったことには異論は殆どないことでしょう。機械化により工場における大量生産が可能となり、手工業品に対して圧倒的な価格競争力を備えたからこそ、イギリス製品が世界の市場を席巻することとなったのです。‘国際競争力なくして大英帝国なし’と言っての過言ではありません。そしてこの歴史的な事実は、今日にあっても自由貿易体制に対して、根本的な疑問を投げかけています。自由貿易体制とは、強者必勝の体制であって、リカードが貿易関係にある二国間に財モデル説明した互恵関係は、極めて限定された条件の下でしか成立しないからです(つまり、殆どの国家間の貿易関係が、同モデルには当て嵌まらないこととなる・・・)。
その一方で、圧倒的な競争力を持つイギリス製品の大量流入により、世界各地にあって伝統産業が壊滅状態に追い込まれるのですが、繁栄を極めたはずのイギリス国内に視線を転じますと、そこには、海外にも負けず劣らずの悲惨な状況を見出すこととなります。それは、上述したヴィクトリア時代の‘上流階級’や‘中流階級’が洗練された優雅な生活とは対局にあるような、非人間的な生活が営まれていたのですから。
カール・マルクスが『資本論』を世に送り出した真の目的は、労働者を救うためではないのでしょうが、同書には、当時の労働者階級が置かれていた凄惨を極める生活環境に関する記述があります(岩波文庫の『資本論』では第二巻に当たる・・・)。当時、議会報告等の目的で作成された調査結果の内容を紹介する形ですので、マルクスが意図的に脚色したり、捏造したわけではないようです。同ページに記された状況は、‘世界残酷物語’と見紛うほどであり、およそ本ブログに書くのも憚られるほどなのです(植民地の人々の方が、まだ‘まし’ではないかと思うほど・・・)。しばしば、大英帝国については、‘光と影’があると言われてきましたが、このような生やさしい表現ではなく、むしろ‘天国と地獄’の対比に近いのです。
それでは、共に大ブリテン島に住みながら‘天国と地獄’という、二つの世界が何故生じてしまったのでしょうか。その理由も、当時の自由貿易体制に求めることができましょう。自国民の需要を超えて全世界の市場に対して輸出しようとすれば、莫大な量の製品を製造しなければならないからです。とかくに大英帝国のまぶしさに目がくらみがちなのですが、当時のイギリスの労働者の実態は、自由貿易体制というものが、その中心国にあってさえ必ずしも全ての国民を幸せにはしないことを実証する、歴然とした実例とも言えましょう。
過去の人類の歴史を真摯に見つめなおしますと、今日のグローバリズムに対しても、最大の受益者となる少数のグローバリストやその取り巻きの組織や人々の恩恵のみをもって、同政策の是非を判断することには慎重であるべきように思えます。そして、この二極化の歴史は、自由主義と共産主義という二つの極端な思想こそが、内面にまで入り込んだ人類のコントロールを画策してきたグローバリストの二頭作戦、あるいは、国民分断作戦の一環であったとする疑いを強めてゆくのです(つづく)。