‘徳’というものについては、それ自体が賞賛すべき道徳・倫理的な価値であり、古今東西を問わず、無限に追求すべきものと信じられてきました。しかしながら、‘徳’に関する完璧なる絶対性を否定した人物が過去に存在していたとしたら、多くの人々が驚くことでしょう。この誰もが驚くような人物とは、三権分立の定式化で知られるかのモンテスキューなのです。
モンテスキューは、『法の精神』の中で、政治的自由は制限政体にしか存在しないとする文脈において「信じられないことだが、徳でさえ制限を必要とするのである(『法の精神』第2部、第11篇第4章、岩波文庫版より引用)」と述べています。モンテスキュー自身が‘信じられないことだが’と付しているように、‘徳に対する制限’の主張は、18世紀フランスの一般的な固定概念とは違っていたことを示しています。そして、今日にあっても、この言葉に‘目からうろこ’となる人も少なくないはずです。とりわけ日頃より行き過ぎたリベラリズムの独善や心理的脅迫に苦しめられている人々にとりましては、‘我が意を得たり’の心境となったのではないかと思います。
社会全体の改革、否、自らのヴィジョンを他者に押しつけるに際してのリベラリストの手法とは、徹底的に道徳や倫理的価値を利用するところにあります。道徳や倫理とは、しばしば神が持ち出されますように、崇高な精神に基づくと観念されています。言い換えますと、高見から人々に対して要求し得る優越的な立場を、先ずは確保しているのです(モラルハザードとも共通・・・)。
しかしながら、喩えそれが誰もが否定し得ない道徳的な命題であったとしても、これに制限を設けませんと、社会の混乱や権利侵害が生じます。例えば、平等の価値を掲げた‘反差別’の主張も、アメリカのアファーマティヴ・アクションにあって常々問題視されてきたように、その行き過ぎは逆差別が起きてしまいます。法の前の平等の原則を壊してしまうのですから。個人の基本権の尊重という価値でさえ、それを無制限に認めますと、犯罪者に対して刑罰を科すことさえできなくなります。さらには、ジェンダーフリーの思想の押しつけやLGBTQ運動も、多くの人々を困惑させ、自然な羞恥心をも無視し、公序良俗まで破壊しかねないのです。
また、‘人の移動の自由’を絶対的な‘善’として位置づけますと、移民の制限自体が‘悪’と見なされます。その結果、移民人口の爆発的な増加をも認めざるを得なくなります。やがて国民の人口における民族構成が変わりますので、その国に先祖代々定住し、荒れ地を開墾・開拓し、村や町や都市を造り、インフラ等の設備を整え、様々な制度をも造ってきた人々は、事実上、国際社会における政治上の集団的権利である民族自決権、即ち、‘自らの国家を持つ権利’を失うことになりましょう(人類の民族性の違いに即した今日の国民国家体系を破壊する・・・)。
そしてこの側面は、経済の分野についても言えることです。第二次世界大戦後にあっては、ブレトンウッズ体制の下で自由貿易主義がアメリカを中心に強力に推進され、米ソ冷戦の終焉後には、関税の撤廃によるモノのみならず、サービス、資本、人、テクノロジー、情報とも国境を越えて自由に移動することを是とするグローバリズムが全世界を席巻してきました。移動の自由を‘絶対善’とする無制限な自由の強要が、極少数のグローバリストに富と権力を与え、全人類に対する‘専制’とも言える横暴を招いたことは、今日、多くの人々が認識するところです。
たとえ‘徳’であったとしても制限が必要である、とするモンテスキューの言葉は、現代人こそ噛みしめるべきことかも知れません。この世には、道徳や倫理、あるいは、徳目や正義を自らの野望や利益のために悪用する人も存在しますし、誰もが認める価値であったとしても、それが相互に衝突したり、他者の権利を侵害することもあるのですから。現代人は過去に生きた賢人の言葉に学び、制限の必要性を認めた上で、より調和的な秩序や制度の在り方を考えてゆくべきなのではないかと思うのです。