万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

メディアやSNSの言論規制が暴力を誘発する矛盾

2021年01月18日 17時06分36秒 | アメリカ

国会議事堂占拠事件を待つまでもなく、メディアやSNS各社は、アメリカ大統領選挙にあって積極的な干渉を行ってきました。メディアは、トランプ大統領に対しては、それがフェイクニュースであってもネガティヴ情報の流布を放置しましたし、自らフェイクニュースを堂々と報じることもあったのです。SNSも負けてはおらず、政治的主張や事実の指摘に対しも書き込みを制限したり、ユーザーに対して警告を付してきました。遂に、ツイッター社は、同大統領のアカウントを永久に停止する措置を採ったのですが、その一方で、バイデン氏に対しては、それがたとえ事実であり、政治生命を失うような重大な不正行為や売国行為であったとしても、メディアもSNSも全力でネガティヴ情報の拡散を妨害し、‘バイデン押し’一辺倒で報じたのです。

 

こうした行為は、誰の目から見てもアンフェアですし、メディアやSNSの存在意義さえ問われる事態です。一体、メディアやSNSとは、何を目的として設立されているのでしょうか。メディアとは、判断材料や事実を知りたい国民一般に対して情報を収集し、それ等を提供するサービス事業者です。そして、SNSとは、一般の人々のコミュニケーション空間にあって意見交換や対話、あるいは、情報の発信ツールを提供するという、これもまたサービス事業者と言えましょう。

 

つまり、メディアもSNSも不特定多数の受け手やユーザーが存在しなければ成立し得ない事業であり、この一般的理解に従えば、メディアもSNSも事実のみを誠実に報じると共に、人々のコミュニケーションや情報発信に対して介入してはならないはずです。しかしながら、現実には、上述したように特定の政治的立場の宣伝機関、あるいは、世論誘導機関でしかなく、本来のサービス事業者としての役割を果たしているとは言い難い状況にあります。その理由は、これらの企業の経営方針には、スポンサーや株主の影響が強く反映されるからです。メディアが仲介者の意味を持つように、これらの企業は、資金力や政治力に優る特定勢力と一般大衆の間にあって、どちらの側にも転びうる立場にあるとも言えましょう。そして、近年、とりわけ前者への傾斜が著しく、特定勢力、すなわち、超国家性を有するリベラル勢力の‘所有物’となっていると言わざるを得ないのです。

 

メディアやSNSが特定の勢力によって私物化されているとしますと、これは、れっきとした陰謀です。そして、言論の自由を損ない、私的検閲にまで及んでいるとしますと、批判を受けても致し方ないと言えましょう。そして、国会議事堂への乱入事件に際し、暴力を煽ったとしてトランプ陣営を糾弾し、これに便乗するかのように米民主党側の不正選挙に関する発言や情報まで消し去ろうとしています。‘バイデン勝利’に対する異議申し立ての声を封殺し、‘なかったこと’にしようとしているのです。

 

 こうした民主党側による言論の抑圧は、暴力の阻止を根拠として行われているのですが、言論を封殺する行為こそ、暴力、否、力による抗議を誘発してきた歴史を忘れているようです。何故ならば、言葉によって権力者を批判したり、不正に対して抗議する道が塞がれてしまいますと、人々は、実力行使に訴えるしかなくなるからです。平和的に国制を改善したり、不正を糺すためには、自由な言論空間を要します。民主主義の発展も言論の自由の保障と軌を一にしており、公的な問題についてオープン、かつ、自由闊達に議論し、悪しきは悪しきとして指摘し得る言論空間こそ、力ではなく理性や知性によって問題を解決してゆくための必要不可欠の条件とも言えましょう。

 

この点に鑑みますと、マスメディアやSNSによる言論規制は、やはり、民主主義を損ねていると言わざるを得ないように思えます。‘ペンは剣よりも強し’とも申しますが、言論の自由を保障してこそ、剣に依らずして善き政治や社会が実現するのですから。

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