社会・経済的に不利な立場にあるマイノリティーの救済は、現代国家にあって政治が解決すべき課題とされています。とりわけリベラリズムを掲げるアメリカの民主党政権は、アファーマティブ・アクションにも象徴されるように、歴代、人種差別や社会的格差是正に積極的に取り組んできました。そして、今日では、救済されるべきマイノリティーとされる対象は、従来の人種や民族に留まらず、LGBTQといった他の領域にまで広がっています。
貧困や病気に苦しむ弱者の救済事業は、現代国家に始まったわけではなく、日本国の歴史を振り返りましても、今からおよそ1300年を遡る奈良時代には悲田院や施薬院等が設けられたとする記録があります。こうした救済事業は、その対象となった助けを必要とする人々のみならず、為政者が国民に対して慈悲深さをアピールする効果もあったのかもしれません。何れにしましても、国民の多くは、弱者を救済しようとする為政者の姿を好意的に受け止めていたことでしょう。
過去の歴史にあっては稀であった弱者救済事業は、今日の国家では凡そ社会福祉政策として実施されており、誰もが弱者となり得る故に、国民に物心両面において安心感をもたらしています。その一方で、リベラリズムが推進しているマイノリティー救済政策には、その真の目的を慎重に見極める必要があるように思えます。弱者救済は、道徳や倫理に照らして多くの人々の支持を得やすい、否、異議を唱えるのが憚られる政策故に、悪用されやすい側面をも持つからです。それでは、マイノリティー救済には、どのような弱点が潜んでいるのでしょうか。
第1に指摘し得るのは、必ずしもマイノリティー=弱者とは限らない点です。例えば、ユダヤ系の人々は、その厳格な宗教的戒律のために独自の閉鎖的なコミュニティーを形成してきたため、ゲットーなどに居住させられたり、ナチス政権から迫害を受けるといった歴史を背負っています。その一方で、金融界を制する故にマネー・パワーを全世界に対して存分に発揮していますので、弱者とは言いがたい存在です(世界権力の主要勢力・・・)。アメリカでは民主党の支持母体でもあり、マイノリティーの優遇は、強者の特別扱いに転じかねないのです。日本国内でも、ソフトバンクの孫正義氏やパチンコの事業者など、韓国朝鮮系の人々には富裕層に属する人々が少なくなく、また、最近増加している中国系の人々の中にも、起業家であったり、日本国内で不動産などを買い漁る資産家も見受けられます。こうした現実からしますと、マイノリティー=弱者の定式を利用した、マイノリティー富裕者による特権の保持という目的が推測されるのです(世界権力は、外部のスポンサーとしてマイノリティーの一部に富や権力を与えることで、代理支配並びに圧力団体の育成を目論んでいるのかもしれない・・・)。
第2の問題点は、政策の対象がマイノリティーであるために、民主主義のシステムとの間に不整合が生じることです。民主主義とは、自由な議論を前提としつつも、最終的には多数決を是とします。極端な言い方をすれば‘マジョリティーによる政治’とも言え、国民世論に沿った政治がその理想とされるのです。ところが、マイノリティーは数としては少数ですので、政治を動かす力に欠けています。自らの声が政治に届かず、その要望が政策化され難いという問題を抱えているのです。そしてこの側面こそ、民主主義国家の政治システムにあって、弱者の代弁者として政府が‘上からの救済’として自らの政策を実施する口実を与えることにもなるのです。
そして、第2の問題に関連して第3点として挙げられるのは、マイノリティーの救済が政治の中心課題として位置づけられた場合、政府がマジョリティーに対する政策を疎かにする、あるいは、その声を無視する傾向が強まる点です。行きすぎたマイノリティー救済政策は、民主主義の中核となるマジョリティー(世論)の軽視を正当化してしまうのです。しかも、財政面に注目しますと、少数者であるマイノリティーを対象とした政策の方が、対象者が限られますので予算は低レベルに抑えることもできます。このことは、マジョリティーである一般納税者は税負担に苦しむ一方で、給付金、補助金、サービスなど、税負担に見合った形で還元されないことを意味します。民主的国家体制が、国民搾取型のシステムへと変貌してしまいかねないのです。実際に、日本国政府を見ましても、リベラルなバイデン政権、否、世界権力の政策方針に追随しているため、同傾向が強まっているように見えます。
このように考えますと、マイノリティー救済政策には、民主主義を体よく封じてしまう手段ともなり得るリスクがあるように思えます。そして、この手法が、世界権力による上下挟み撃ち戦略の一環であるとするならば(マイノリティー強者によるマイノリティー弱者の利用・・・)、中間層の破壊と民主主義の喪失が同時進行することともなりましょう。世界権力が描く人類の未来像が、同作戦の末に等しく貧困化した人類のデジタル全体主義に基づく画一的な管理であるとするならば、マイノリティー保護政策の背景をも注意深く観察し、日本国民をはじめ各国の国民は、自らに仕掛けられた罠から逃れる方法を真剣に考えるべきではないかと思うのです。