本日、7月23日、いよいよコロナ禍にあって迷走し続けてきた東京オリンピック・パラリンピックの開会式を迎える日となりました。従来の大会であれば祝賀ムードに包まれているはずなのですが、’煽り役’のメディアでさえ控えめの報道に終始しています。その要因の一つには、開会式を直前にして過去の差別的な発言や非常識な行動が問題視され、職を解かれた小山田圭吾氏、並びに、小林賢太郎氏といったオリンピック関係者の存在があるのでしょう。そして、今般、両氏に輪をかけて国民の反感を買っているのが、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の参与を務める実業家の夏野剛氏の発言です。
問題視されている夏の氏の発言とは、「そんなクソなピアノの発表会なんてどうでもいいでしょう、五輪と比べれば。それを一緒にするアホな国民感情に、今年選挙があるから乗らざるを得ないんですよ」というものです。同発言を言葉を補って解釈しますと、「国民が楽しみにしている行事やイベントなどは、世界的な大イベントであるオリンピックと比較すれば取るに足りないもの。そもそも、オリンピックと国民の行事を同列に論じることが間違い。両者の区別が分からずに批判する愚かな国民感情に配慮する必要など、本来はない。それでも日本国政府(自民党と公明党)は、今年の衆議院選挙を控えているので、表向きはこの愚かな国民感情に付き合わざるを得ない。ああ、馬鹿馬鹿しい…」ということになりましょう。
この発言、TVのニュース番組「ABEMA Prime」に出演しての発言ですので、内輪での発言や独り言ではなく、国民一般に向けられていることは疑いようもありません。即ち、国民に面と向かって、上から目線で民間行事やイベントを貶し、国民を愚か者として侮辱しているのです。常識的に考えれば、現状にあってさえオリンピックに対する国民感情が悪化しているのですから、火に油となることは容易に予想できるはずです。あからさまな侮辱を受けて、素直にそれを受け入れて納得する人など殆どいないからです。
案の定、同発言は多くの国民から激しい批判を浴びることとなったのですが、その主たる批判点は、一般の国民は、オリンピックよりも自らの一生の思い出ともなる身近な行事やイベントの方を大事にしているというものです。オリンピックとは、確かに莫大な国費が投じられる国際的な大イベントですが、国民からしますと、たとえささやかであっても、運動会や修学旅行、さらには学芸会や発表会などは一生に一度の出来事ですし、かつ、自らの体験として記憶に残るもののほうが重要です。
しかも、夏野氏は、’クソなピアノの発表会’という具体性のある一つの事例で表現することで、自らも両者を混同してしまっています。何故ならば、オリンピックは’一つ’ですが、民間の行事は全国津々浦々無数にあり、数においてはオリンピックを圧倒的に凌駕するからです。つまり、イベントの規模において両者を区別し、オリンピックの優位性を主張しながら、量においてはオリンピックが劣位することに気が付いていないのです。
また、夏野氏はオリンピックに至上の価値を置いていますが、これも怪しくなってまいります。しばしば、オリンピックに出場するアスリートに対しては、常々、オリンピックの舞台に立つために涙ぐましい努力を重ね、厳しい訓練に耐えてきたとして賛辞を惜しみません。しかしながら、よく考えてみますと、目的の達成を目指して一生懸命に努力する姿は、アスリートに限らずあらゆる職業において見られます。否、今や娯楽産業の一部門となったスポーツよりも、国民生活や公共の福利において貢献度が高い産業や職種も少なくないのです。また、’クソなピアノの発表会’という言い様からしますと、夏野氏は、芸術の価値も低く見ているのでしょう。
国民からの反発が予測されるにも拘らず、同氏がこうした国民侮蔑的な発言をして憚らないとしますと、サイコパスを疑わざるを得なくなります。そして、こうした国民を見下すような傲慢な態度は、IOCのバッハ会長をはじめオリンピック関係者に多々見受けられます。それとも、敢えて利権に塗れ、堕落した’オリンピック・ソサイエティ’の本性を自ら暴露することで、将来に再生を期した自滅を試みているのでしょうか