候補者の6割、改憲に前向き 朝日・東大共同調査
“憲法第9条の発想こそが平和の敵である”とでも言おうものなら、リベラル派から雨や霰の批判が降ってきそうです。しかしながら、人間社会における安全の実現方法について論理的に突き詰めてゆきますと、この見解は、必ずしも否定はできないように思えます。
利己的他害性を“悪”と見なす人類の普遍的な倫理観からしますと、強奪を目的とした他者に対する攻撃は当然に“罪”と見なされます。この点は、国内の一般社会のみならず、国際社会であっても変わりはなく、侵略や侵害をあるべき行動規範から外れた犯罪とみなされます。そしてそれは同時に、こうした利己的他害行為に対抗する、あるいは、自己を防御する行為は、“悪”を排除するという意味において“善”である、ということになります。侵害なき安全な社会-国際社会では平和な状態-とは、“悪”を廃してこそ初めて実現するのです。ここに、侵害的攻撃=悪・対侵害防御=善という構図が成立します。
さて、この構図に照らしてみますと、人類の前には、国際社会における平和=善を実現するためには二つの道があることとなります。第一の道は、全ての国家が利己的侵害行為を行わず、行動規範を誠実に遵守するというものです。全世界の諸国家の善意と自制心に平和を委ねる道であり、このためには、全ての国家が順法精神と高い倫理観を備えた“善き存在”となる必要があります。もう一つの道は、対侵害防御の手段や仕組みを整え、侵害的攻撃を行う国家を徹底的に抑え込む、あるいは、取り締まることです。後者では、悪しき国家が出現する可能性を認めた上での対応と言えます。しかも、得てして侵害には暴力が手段として用いられますので、それ故に、この方法には、平和を維持するための侵害国に対する物理的強制力を要するのです。
今日の国際社会の現実を見ますと、中国や北朝鮮など、第一の道に背を向けている諸国が存在しています。乃ち、大多数の諸国が第一の道を選択したくとも、現実はそれを許さないのです(仮に将来、全ての諸国が真の意味で民主化、並び、自由化すればあり得るかもしれない…)。そこで残されるのは第二の道となりますが、この第二の道にも、国際レベルにおける普遍的安全保障体制の整備と、個別の国家による単独自衛や同盟による集団的自衛の凡そ二通りの手段があります。現在、何れにあっても、全ての諸国の侵害者に対する防御体制が十分であるのかと申しますと、そうではないのが現状です。前者を制度化した国連のシステムでは、安全保障理事会における常任理事会の拒否権等により、侵害排除を貫徹することができません(特に常任理事国による利己的侵害行為に対しては無力…)。となりますと、各国に残された最後の手段は、個別的自衛か集団的自衛とならざるを得ないのです。
ところが、リベラル派を中心にマスメディアが吹聴している“平和観”とは、理由はどうあれ、武力の行使を全て“悪”と見なすものです。日本国憲法の第9条が記す基本的な平和観も、武力行使をなくせば平和が訪れるとする単純、かつ、楽観的な発想であり、しかも、憲法の前文は、一つ残らず全ての諸国が第一の道を既に選択したとする前提条件のもとで書かれているのです。しかしながら、前提条件が崩れている以上、この発想では、対侵害防御という“善=平和”を実現する手段までもが、侵害的攻撃の手段としての武力と一緒に禁じられてしまいます。順法精神に欠け、暴力を信奉する中国や北朝鮮の行動を見れば、言葉による説得に限界があることは一目瞭然であり、仮に、こうした諸国が暴力に訴えて侵害行為や脅迫行為に及んだ場合、最早、攻撃を受けた側は座して死を待つしかなくなるのです。
そして、武力行使を無条件に“悪”と見なす偽りの“平和論”は、暴力主義国家による利己的侵害を助長する結果をも招きます。反撃を受けることなく、自らの目的が達成される可能性が高まるからですから(“戦わずして勝つ”?)。昨今の核兵器禁止条約にも通じる憲法第9条の発想、即ち、善悪の判断を放棄した“無差別戦争放棄論”こそが、暴力主義国家に武力の行使や威嚇のチャンスを与えているとしますと、こうした非現実的な考え方こそ危険思想なのではないかと思うのです。
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“憲法第9条の発想こそが平和の敵である”とでも言おうものなら、リベラル派から雨や霰の批判が降ってきそうです。しかしながら、人間社会における安全の実現方法について論理的に突き詰めてゆきますと、この見解は、必ずしも否定はできないように思えます。
利己的他害性を“悪”と見なす人類の普遍的な倫理観からしますと、強奪を目的とした他者に対する攻撃は当然に“罪”と見なされます。この点は、国内の一般社会のみならず、国際社会であっても変わりはなく、侵略や侵害をあるべき行動規範から外れた犯罪とみなされます。そしてそれは同時に、こうした利己的他害行為に対抗する、あるいは、自己を防御する行為は、“悪”を排除するという意味において“善”である、ということになります。侵害なき安全な社会-国際社会では平和な状態-とは、“悪”を廃してこそ初めて実現するのです。ここに、侵害的攻撃=悪・対侵害防御=善という構図が成立します。
さて、この構図に照らしてみますと、人類の前には、国際社会における平和=善を実現するためには二つの道があることとなります。第一の道は、全ての国家が利己的侵害行為を行わず、行動規範を誠実に遵守するというものです。全世界の諸国家の善意と自制心に平和を委ねる道であり、このためには、全ての国家が順法精神と高い倫理観を備えた“善き存在”となる必要があります。もう一つの道は、対侵害防御の手段や仕組みを整え、侵害的攻撃を行う国家を徹底的に抑え込む、あるいは、取り締まることです。後者では、悪しき国家が出現する可能性を認めた上での対応と言えます。しかも、得てして侵害には暴力が手段として用いられますので、それ故に、この方法には、平和を維持するための侵害国に対する物理的強制力を要するのです。
今日の国際社会の現実を見ますと、中国や北朝鮮など、第一の道に背を向けている諸国が存在しています。乃ち、大多数の諸国が第一の道を選択したくとも、現実はそれを許さないのです(仮に将来、全ての諸国が真の意味で民主化、並び、自由化すればあり得るかもしれない…)。そこで残されるのは第二の道となりますが、この第二の道にも、国際レベルにおける普遍的安全保障体制の整備と、個別の国家による単独自衛や同盟による集団的自衛の凡そ二通りの手段があります。現在、何れにあっても、全ての諸国の侵害者に対する防御体制が十分であるのかと申しますと、そうではないのが現状です。前者を制度化した国連のシステムでは、安全保障理事会における常任理事会の拒否権等により、侵害排除を貫徹することができません(特に常任理事国による利己的侵害行為に対しては無力…)。となりますと、各国に残された最後の手段は、個別的自衛か集団的自衛とならざるを得ないのです。
ところが、リベラル派を中心にマスメディアが吹聴している“平和観”とは、理由はどうあれ、武力の行使を全て“悪”と見なすものです。日本国憲法の第9条が記す基本的な平和観も、武力行使をなくせば平和が訪れるとする単純、かつ、楽観的な発想であり、しかも、憲法の前文は、一つ残らず全ての諸国が第一の道を既に選択したとする前提条件のもとで書かれているのです。しかしながら、前提条件が崩れている以上、この発想では、対侵害防御という“善=平和”を実現する手段までもが、侵害的攻撃の手段としての武力と一緒に禁じられてしまいます。順法精神に欠け、暴力を信奉する中国や北朝鮮の行動を見れば、言葉による説得に限界があることは一目瞭然であり、仮に、こうした諸国が暴力に訴えて侵害行為や脅迫行為に及んだ場合、最早、攻撃を受けた側は座して死を待つしかなくなるのです。
そして、武力行使を無条件に“悪”と見なす偽りの“平和論”は、暴力主義国家による利己的侵害を助長する結果をも招きます。反撃を受けることなく、自らの目的が達成される可能性が高まるからですから(“戦わずして勝つ”?)。昨今の核兵器禁止条約にも通じる憲法第9条の発想、即ち、善悪の判断を放棄した“無差別戦争放棄論”こそが、暴力主義国家に武力の行使や威嚇のチャンスを与えているとしますと、こうした非現実的な考え方こそ危険思想なのではないかと思うのです。
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