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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

護るべきは風刺の自由-風刺は毒でもあり薬でもある

2015年01月15日 15時40分54秒 | 国際政治
米紙、風刺画掲載めぐり対応割れる 米政府は被害考慮も「表現の自由」強調(産経新聞) - goo ニュース
 凄惨なテロ事件後に初めての刊行となったシャルリー・エブド社の最新号。抗議デモのスローガンともなった”私はシャルリー”という言葉は、コーランの一節のみならず、イスラム過激派の銃撃で瀕死の重傷を負いながらノーベル平和賞を受賞したユスフザイ・マララさんの著書、『私はマララ』をも掛けているように思えます。

 ところで、この事件に関しては、表現の自由か、あるいは、宗教に対する冒涜なのか、という問題が持ち上がり、同社の風刺画の転載に関しては、各国のメディアの対応も分かれていると報じられています。しかしながら、風刺というものが、古来、必ずしも冒涜を目的とした表現手段ではないことは、多くの人々が認めるところです(日本国では、狂歌は古代からある…)。風刺は、ストレートにはなかなか言い難い事や深刻な社会問題などを、笑いを誘うことで読者に意識させるのです。一見は、品のない侮辱や誹謗中傷にも見えますし、読者が不快になって眉を顰めることも多いのですが、その実、極めて高度な知的な表現手段の一つです。そして、風刺によって、普段は何も感じない人でさえ、少しばかり別の角度から物事を眺めてみる機会を得るのです。如何なる人にとっても、狂信的な思い込みは危険ですし、正義の裏には邪心が潜んでいるかもしれませんし、権威といえども警戒すべき偽物もあるかもしれません。こうした人生のリスクや人が陥りやすい誤りを、風刺は人々に上手に警告するのです。いわば、風刺とは、毒でもあり薬でもあるのです。

 このように考えますと、この問題は、表現の自由対宗教的冒涜ではなく、風刺に対する寛容か、非寛容か、の対立にも思えます。ニューヨーク・タイムズなどが掲載を自粛しているのも、あらゆる批判に対して非寛容な中国の影を感じます。風刺さえも許されない社会とは、何とも息苦しい社会であることは言うまでもありません。”冒涜”を表現の自由を制限する根拠として認めますと、イスラム教に留まらず、あらゆる人種、民族、性別、世代、職業…に際限なく対象が広がることでしょう。しばしば弾圧を受けることもあった風刺という表現の自由こそ、如何なる暴力や圧力に屈することなく、護られるべきではないかと思うのです。

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コメント (6)
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