最近、慰安婦問題は、”普遍的な人権問題であるから、軽々しく見直すべきではない”といった論調が散見されるようになりました。慰安婦問題を見直せば、日本国は、国際社会から非人道的な国家と見なされると言わんばかりです。
しかしながら、この論理hは、歪んでいるのではないでしょうか。一方、慰安婦問題が普遍的な人権問題であるからこそ、日本国の名誉回復を願う国民の多くは、必死になって事実の解明を求めています。前者の見解では、慰安婦問題の実像を究明する作業自体を”非人道的な行為”と見なして否定しますので、韓国等の主張するままに”非人道的行為”が史実として定着してしまいます。前者の見解に素直に従えば、日本国は、名誉回復の機会を封じられ、日本国=非人道的な国家という構図が、国際的に固定化されてしまうのです。つまり、”過去の非人道的な行為”の存在を無批判に認めることをもって”現在の人道的な国家”とするわけですから、”日本国は、非人道的国家であった”とする結論が導かれるのです。実態の解明が不可能となれば、日本軍による20万人強制連行説も、人食いをも含む慰安婦殺害説も、反証のしようがありません(法廷に立つ如何なる人も自己弁護の権利があり、反論を封じることは、人の道に外れるのでは…)。一方、後者の立場は、”過去の非人道的行為”の存在自体に厳密な検証を加えることで、”過去の非人道的行為”の詳細を明らかにするというものです。事業者による違法な慰安婦勧誘や将兵による軍規違反の行為は若干あり、それは、確かに犯罪という名の人権侵害でした。しかしながら、虚偽やフィクションに立脚した20万人強制連行説や慰安婦虐殺説と比較しますと、人権侵害の程度には雲泥の差があります(少なくとも、20世紀最大の人権侵害事件の一つとは言えない…)。”現在の人道的国家”のイメージを守るために、”過去の非人道的国家”のイメージを認めるよりも、”過去の非人道的国家”のイメージを史実に即して正し、非人道性のレベルを実態に合わせて下げた方が日本国の名誉は回復されます。つまり、後者の論理では、史実以上の非人道性を結論付けることはできないのです。
歴史に対する不誠実さを薦める前者の見解は一種の詭弁であり、論理的にも倫理的にも誤りを含んでいるのではないでしょうか。
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しかしながら、この論理hは、歪んでいるのではないでしょうか。一方、慰安婦問題が普遍的な人権問題であるからこそ、日本国の名誉回復を願う国民の多くは、必死になって事実の解明を求めています。前者の見解では、慰安婦問題の実像を究明する作業自体を”非人道的な行為”と見なして否定しますので、韓国等の主張するままに”非人道的行為”が史実として定着してしまいます。前者の見解に素直に従えば、日本国は、名誉回復の機会を封じられ、日本国=非人道的な国家という構図が、国際的に固定化されてしまうのです。つまり、”過去の非人道的な行為”の存在を無批判に認めることをもって”現在の人道的な国家”とするわけですから、”日本国は、非人道的国家であった”とする結論が導かれるのです。実態の解明が不可能となれば、日本軍による20万人強制連行説も、人食いをも含む慰安婦殺害説も、反証のしようがありません(法廷に立つ如何なる人も自己弁護の権利があり、反論を封じることは、人の道に外れるのでは…)。一方、後者の立場は、”過去の非人道的行為”の存在自体に厳密な検証を加えることで、”過去の非人道的行為”の詳細を明らかにするというものです。事業者による違法な慰安婦勧誘や将兵による軍規違反の行為は若干あり、それは、確かに犯罪という名の人権侵害でした。しかしながら、虚偽やフィクションに立脚した20万人強制連行説や慰安婦虐殺説と比較しますと、人権侵害の程度には雲泥の差があります(少なくとも、20世紀最大の人権侵害事件の一つとは言えない…)。”現在の人道的国家”のイメージを守るために、”過去の非人道的国家”のイメージを認めるよりも、”過去の非人道的国家”のイメージを史実に即して正し、非人道性のレベルを実態に合わせて下げた方が日本国の名誉は回復されます。つまり、後者の論理では、史実以上の非人道性を結論付けることはできないのです。
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