世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
時事通信社が発信した記事に依りますと、米政府高官は、悪化する一途の日韓関係について双方に責任があるとする見解を示したそうです。その背景には、韓国による日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄、即ち、中国、ロシア、北朝鮮の動きを睨んだアメリカ政府の安全保障上の懸念があるのでしょうが、日韓対立激化の発端は韓国側の所謂‘徴用工訴訟判決’にありますので、日韓両国を比較しますと、韓国側により重い責任があるように思えます。日本国側としては、同米高官の発言は釈然としないのですが、仮に、アメリカが日韓関係の改善を試みようとするならば、先ずは、韓国に対して、‘徴用工問題’の解決を国際司法の場に委ねるように説得すべきではないかと思うのです。
実のところ、その解釈をめぐり紛争となっている日韓請求権協定に関しては、アメリカも無関係ではありません。同協定を含めて1965年に日韓関係が正常化される過程にあって、アメリカは、常に日韓交渉の裏方、あるいは、仲介者としての役割を果たしていたからです。この時、両国政府は、日韓間で対立が生じ、交渉が暗礁に乗り上げる度にアメリカに打診し、その意向を窺っております。その際、朝鮮戦争によって韓国の国土が破壊され、経済も疲弊していたこともあり、アメリカ政府は、どちらかと言えば韓国側の主張に寄り添っていたように見えます(この時期がベトナム戦争中に当たる点を考慮すれば、あるいは、韓国軍のベトナム派兵も絡んでいるかもしれない…)。難航していた交渉は、結局、アメリカの鶴の一声によって日本国側が大幅に譲歩する形で妥結し、正当な根拠を有する請求額を遥かに越える巨額の支援金を韓国側に提供することとなったのです(日本国政府は、韓国に譲歩したというよりは、アメリカに譲歩している…)。
当時の日韓交渉の過程を振り返りますと、アメリカは、同協定成立の影の立役者であると共に、その場に立ち会った‘証人’でもあったことが分かります。否、日韓請求権協定の真の草案作成者はアメリカかもしれず、65年の日韓関係の正常化は、日本側が一方的な不利益を被ったとはいえ、アメリカの外交成果の一つとも言えるかもしれません。となりますと、先日、日本国政府が証拠として提示したように、韓請求権協定における日韓両国間の合意内容に徴用工の給与未払い分を含む全ての請求権が含まれていることは、アメリカ政府もまた十分に認識しているはずなのです。
こうした事情があればこそ、同協定に対して責任の一端を負うアメリカは、日韓対立の要因となっている同協定について、誠実なる遵守を韓国側に求め得る立場にあります。そして、日韓請求権協定の第三条が、紛争の解決手段として仲裁委員会の設置を設けている以上、アメリカ政府には、先ずもって同手続きに従うよう韓国政府を説得していただきたいと思うのです。当時の日本国政府は、自国に不利であることを承知の上で、個人を含む全ての請求権の放棄を条件として、同協定に署名したのですから。
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今月15日、IMFは、デジタル通貨に関する報告書を発表しました。念頭にあるのはフェイスブックが発行を予定している「リブラ」なのでしょうが、同報告書の分析には首を傾げたくなる部分も少なくありません。本日の日経新聞朝刊によれば、IMFは、デジタル通貨に関するシナリオとして、「共存」、「補完」、「乗っ取り」の3つのケースを想定しているそうです。
「乗っ取り」のシナリオとは、通貨システムの脆弱な新興国等において「リブラ」が自国通貨を駆逐し、通貨発行権から金融政策の権限に至るまで全てを‘乗っ取る’というものです。可能性は低いとしながらも、通貨崩壊に見舞われたジンバブエのみならず、自国通貨の信用下落によって外国通貨が国内で流通するに至ったケースがないわけではありません。また、経済規模の小さなミニ国家などでは、協定などに基づいて近隣の大国の通貨を自国通貨として使用する事例もあります。こうした事例を考慮すれば、「乗っ取り」は、決して可能性の低いシナリオではないように思えます。また、「リブラ」の基本コンセプトは国境を越えた送金の円滑化にありますので、新興国や途上国から先進国への移民が増加すればするほど、同シナリオの実現性は高まることでしょう。
かくして「乗っ取り」シナリオはあり得るのですが、「共存」と「補完」についても、IMFの認識は甘いようにも思えます。デジタル通貨が登場すれば、既存の銀行預金の一部がデジタル通貨に換金されて流出する、あるいは、主要な預入先がデジタル通貨の発行主体に移るため、民間銀行の融資機能が低下することが予測されます。このことは、民間金融機関とネットワークで繋がることで金融政策を実施してきた国家の中央銀行の影響力も低下することをも意味します。そして、デジタル通貨の発行主体が獲得した既存通貨を直接に運用する、即ち、‘銀行業’を開始すれば、既存の銀行は存亡の危機に立たされるのです。こうした‘銀行淘汰’の事態を避けるために、同報告書では、デジタル通貨の発行主体がユーザーから得た既存通貨を銀行に預け入れる、すなわち、還流させれば、両者は「共存」あるいは「補完」し得るとしています。
実のところ、銀行への再預金案は、IMFによる既存銀行とデジタル通貨発行主体の両者に示した‘妥協案’であるのかもしれません。しかしながら、この‘妥協案’よく考えても見ますと、やはりまやかしがあるようにも思えます。何故ならば、既存の銀行に再預金するのは、あくまでもデジタル通貨の発行主体であり、ユーザー自身ではないからです。つまり、既存銀行の口座はデジタル通貨の発行主体の名義となりますので、既存通貨との交換で得た巨額の通貨発行益の運用を、デジタル通貨発行主体が既存の銀行に任せるに過ぎないのです。この案では、民間企業であるデジタル通貨発行主体が、誰もが納得するような合理的な根拠もなく、莫大な通貨発行益を得る点においては変わりはありません。
IMFは、ビット・コインが登場した際にも、国際社会に対して積極的に議論を喚起することもなく、既成事実としてその存在を黙認してしまいました。今般のリブラ構想にあっても、IMFは、もっともらしい‘妥協案’を提示しつつ、ビット・コインと同様に民間企業によるデジタル通貨の発行を認めようとしているように見えます。今般、フランスでG7財務相・中央銀行総裁会議が開催されますが、国際機関であるIMFのスタンスとは異なり、自国経済や国民生活を預かる国家の視点から、民間企業への通貨発行権や政策権限の移譲に伴うリスクについて議論を尽くしていただきたいと思うのです。
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スマートフォンといった携帯端末の出現は、社会におけるコミュニケーションの在り方を一変させてしまいました。今では、IT大手が運営するSNSが他者と関わる主たる手段となっている人も少なくありません。しかも、SNSといったネットサービスは無料であるものの、それと引き換えに、ユーザーは利用規約によって位置情報や交友リストなど自らに関する個人情報の一切を事業者に提供する義務を負わされています。このため、IT大手は、個々のユーザーの行動や思想傾向のみならず、人間関係をも全てデータ化して管理することができるのです。
IT大手は、情報・通信サービス事業と云う名において社会全体をコントロールする手段を手に入れているのですが、社会分野に留まらず、その支配的な野心は、今や経済の分野にまで及びつつあります。IT大手の中には、GAFAの一角を成すアマゾンのように人々の消費行動を把握し得る通販ネットワークを構築した事業者もおりますが、今般、これらの事業者は、本業の事業展開に伴ってグローバルレベルに広げた自社のネットワークを金融分野に転用しようとしています。中国の通販大手のアリババは、既にブロックチェーン技術を用いた国際決済サービス事業に着手していますし、フェイスブックもリブラ構想への参加を打ち上げています。
単一通貨を想定するこれらのケースでは、従来民間の銀行が行ってきた送金や決済業務のみならず、将来的には通貨発行権の掌握をも視野に入れているかもしれません。例えば、リブラは、米ドルやユーロ、あるいは、安定的な公債を準備として発行される予定であり、マイニングを要するビットコインとは異なる‘ステーブルコイン’とされているものの、よく考えても見ますと、ブレトンウッズ体制にあっては金・ドル本位制と称されたように、米ドルの準備高がその国の通貨発行量とリンケージしていました。管理通貨制度に移行した今日でも、為替決済を通して中央銀行は通貨を供給しています。また、特に公開オペレーションの買いオペは、債権を準備とした通貨供給の一面がないわけではないのです。つまり、リブラの発行機関は、事実上、国家の中央銀行と同様の機能を有しているということができるのです。通貨供給量を人為的に調整できる点において、リブラは、ビットコインよりも国家が発行している既存の公定通貨に近いとも言えましょう。なお、仮にリブラが許されるならば、如何なる私人、あるいは、民間団体であっても、独自に通貨を発行することが可能となります。
IT大手が個々人の消費行動、所得、金融資産、投資行動といった経済に関わるおよそ全ての情報を掌握すると共に、自らが既存の銀行や中央銀行の役割をも兼任するとなりますと、IT大手は、民間事業者でありながら、経済全体を支配する強力な手段を手に入れることとなります。それでは、IT大手による国境を越えた経済支配を防ぐことはできるのでしょうか。
最も有効性が高いと期待できる手段とは、競争法の活用です。競争法上の取締行為の類型の一つに‘集中規制’と呼ばれるものがあります。これは、財閥や企業グループが経済全体を支配するほどに巨大化しないように歯止めをかけるための規制なのですが、これらが参入し得る事業数や業種に対して制限を設けています。‘集中規制’の観点からすれば、IT大手による異業種への参入は、競争法によって規制されて然るべきように思えます。つまり、社会のみならず、経済をも同時に支配する恐れのあるIT大手による金融事業に対しては、その参入を認めないというのも一案です(現行の競争法では難しいのであれば、法改正も必要かもしれない…)。そして、こうした規制は、情報の収集を伴う交通インフラの支配という側面において、中国IT大手のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)、並びに、アップルやグーグルによる自動運転システムの開発についても適用すべきようにも思えるのです。
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鄧小平氏による改革開放路線への転換により、中国は、極めて短期間に世界第2位の経済大国に伸し上がりました。同国の急成長を支えてきたのは外資や先端技術の導入であり、このため、中国は、輸出攻勢で一帯一路構想を打ち上げる程に外貨準備を積み上げ、周辺諸国を‘借金漬け’にしながら、自らも膨大な額の外貨建ての債務を抱えることとなったのです。
冷戦期にあっては、西側諸国はソ連邦をはじめとした東側に対する資金や技術の流出に殊の他警戒し、神経をすり減らしていたことに鑑みますと、冷戦後の中国に対する態度は寛容すぎる程に寛容でした。あるいは、同国が堅持した共産党一党独裁体制は、西側諸国の金融・産業界にとりましては、投資リターンを最大化するには好都合ですらあったかもしれません。共産党の強力な統制力の下で、低賃金・低価格の生産が実現するのですから。かくして、軍事・政治的リスクは脇に追いやられ、両者の対立を絶対視した共産主義思想にあってはあり得ない、‘資本主義国’と‘共産主義国’との蜜月時代が到来したのです。
しかしながら、アメリカにおけるトランプ政権の誕生は、こうした両者間の関係が終焉に向かう重大な転機となりました。そして、米中対立の長期化が予測される中、中国が米ドルに代わって金準備を積み増して金本位制への移行を目指すと同時に、米ドル基軸通貨体制の崩壊を狙っているとする指摘も聞かれるようになりました。仮に、このシナリオが存在するとすれば、中国は、‘金融自爆テロ’とでも称すべき戦略を選択する可能性もないわけではありません。
‘金融自爆テロ’とは、自国の債務の大半が外貨、即ち、米ドルであることを逆手にとった習近平政権によるデフォルトの容認です。そのトリガーとなるのは、アメリカの銀行ではなく膨大な対中債権を抱えるドイツ銀行ではないかとする憶測もありますが、この結果、全世界の金融機関が抱える対中債権の大半が不良債権化、あるいは、回収不能となる可能性があるのです。リーマンショックでも観察されたように金融の世界は複雑なヘッジ関係で連鎖しており、多重的なデリバティブを介して金融危機は全世界に波及します。つまり、中国は、デフォルトを容認することで自らの債務を消滅させ、借金という頸木を振り払うと同時に、アメリカをはじめとした自由主義国の金融システムに破壊的なダメージを与えるかもしれないのです。
金融危機が発生すれば、自由主義諸国の金融機関の融資能力は著しく低下すると共に、FRBによる救済的な量的緩和策から米ドル相場の下落も予測されます。これを機に中国が金本位制へと移行すれば人民元の信用は一気に上昇し、米ドルに代わる貿易決済通貨としての立場を得ることもできるかもしれません。アメリカは、暫くの間は金融危機への対応に忙殺され、中国脅威論に対する国民の関心も薄れることでしょう(ただし、中国が金本位制に耐えうるほどの金を保有することができるか否かは不明ですし、このシナリオは失敗に終わる可能性が高い…)。
そして、さらに厄介な点は、国際基軸通貨としての米ドルの地位の凋落を望んでいるのは、中国のみならず、国際金融勢力の中にも存在していることです。となりますと、同シナリオは、中国単独なのか、それとも、合作なのか判断が難しくなるのですが、少なくとも日本国政府、並びに、金融機関や企業は、同シナリオの可能性をも考慮しながら、対中政策や経営戦略を見直し、中国発の金融危機にも動じないよう、‘いざ’と言う時に備えるべきではないかと思うのです。
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一時は合意観測が流れたものの、中国側の翻意によって対立が再燃し、米中貿易戦争に未だに終息の兆しは見えません。長期戦が予測される中、アメリカ政府によって引き上げられた中国製品に対する高関税を嫌い、中国から製造拠点を東南アジア諸国に移す動きが企業間で広がっているそうです。こうした米中貿易戦争に対応したサプライチェーンの再編は、中国市場に対米輸出拠点を設けた日本企業を含む海外企業の対応と思われがちですが、驚くべきことに、当の中国企業もまた、製造拠点を自国から周辺諸国に移しているというのです。
中国の習近平国家主席は、自由や民主主義に対する国民の関心を逸らすが如くに、事あるごとに愛国心の高揚に努めてきました。同政権の愛国路線からしますと、製造拠点を海外に移す自国企業に対して厳しい姿勢で臨みそうなものです。外資系企業の撤退によって雇用状態が悪化する中、自国企業も工場を海外に移転してしまえば、失業者が溢れる事態に陥りかねないからです。中国は、法律によって共産党が企業各社の経営に口を挟める体制を整えていますので、拠点移転の動きも共産党の消極的な黙認、あるいは、積極的な奨励の下で行われているものと推察されるのです。
習政権は、自国企業のサバイバルと国民の雇用不安を天秤にかけた結果、前者を選択したのでしょう。この選択は、共産党と企業利権が密接に結びついている証でもあるのですが、一般の中国国民にとりましては職場を失うことを意味しますので、同政権、さらには、共産党一党独裁体制に対する不満は高まることでしょう。言い換えますと、米中貿易戦争は中国政府が自国民を犠牲に供したことで、その国家体制をも揺るがしかねないのです(もっとも、暴動や反乱等の発生を防ぐために、政権側は先端的なIT技術を駆使して国民の情報・言論統制を強化している…)。
米中貿易戦争をめぐる中国企業の海外移転は政治分野にも波及するものと予測されますが、日本国も‘蚊帳の外’というわけにはいかないようです。まずもって警戒すべきは、TPPなのではないかと思うのです。その理由は、中国企業の移転先には、ベトナムといったTPP加盟国が含まれているからです。TPP加盟国における製造拠点の設置には、中国企業にとりまして、グローバル戦略上において二重のメリットがあります。主要なメリットは、対米輸出において高率関税を逃れることができる点ですが、このメリットは、TPP非加盟国に製造拠点を移しても同じです。その一方で、TPP加盟国への移転には、もう一つのメリットがプラスされます。それは、TPP協定に定められた原産地基準を充たしていれば(付加価値基準の例では55%…)、中国企業は生産国の製品として無関税でTPP加盟国に輸出できるメリットです。
この仕組みを考慮すれば、中国企業が、アメリカ市場のみならず、日本市場をも自国製品の輸出先としてターゲットに定めることは十分に予測されます。国民感情は別としても、日中両国政府は、両国間の冷却期間は去って‘関係は正常化した’と盛んにアピールしています。特に中国の‘微笑外交’に押され、日本国政府は、同盟国であるアメリカに同調することもなく、中国からの輸入品に対する関税率は現状を維持しているのです。かくも対中融和的な傾向にあって、果たして、日本国政府は、TPP経由で中国企業の製品が日本国内に無関税、あるいは、低関税で大量に流れ込んできた場合、どのように対処するのでしょうか。日本企業は、リスク含みの中国市場からは撤退したとしても、国内にあって中国企業との厳しい価格競争に晒されるかもしれないのです。
トランプ大統領が就任後、真っ先にTPPからの離脱とNAFTAの再交渉に取りかかったように、自由貿易圏の形成には、域内の先進国にとりまして不利な側面があります(非加盟国企業による加盟国生産拠点からの輸出の増加…)。米中貿易戦争は、TPPのマイナス面を増幅させる可能性がありますので、日本国政府は、米中貿易戦争の長期化を見据え、最低限、TPP加盟諸国に対して中国企業による迂回輸出の拠点化の問題を提起すべきではないでしょうか。
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株式会社は自分自身が生まれる前から存在しておりますので、誰もが至極当たり前の企業の組織形態であると見なしがちです。しかしながら、人類史を振り返りますと、株式会社の誕生はヨーロッパ各国において東インド会社が設立された17世紀初頭に過ぎず、その歴史は400年ほどでしかありません。
しばしば、‘常識を疑え’と言われますが、何かしらの解決し難い問題を抱えたり、改善を探るに際して、原点に帰ってその根本を疑ってみることは重要です。そこで、ここでは、今日、経済における主要プレーヤーである企業の最も一般的な形態である株式会社について疑ってみたいと思います。株式会社とは、今日の経済にとりまして最適の形態なのでしょうか。
世界最初の株式会社はオランダ東インド会社とされ、それは1602年3月の出来事です。もっとも、最初から一つの‘株式会社’として設立されたわけではなく、当時、航海会社(貿易会社)の乱立から生じた東方貿易品の仕入れ価格の高騰と値崩れに対する危機感から、政府が独占権を与える形で複数の会社を統合したものでした。つまり、同社の資本も民間商人等を含む‘寄せ集め’とならざるを得なかったのです。また、そもそも、海洋貿易は、貿易船の調達や水夫の雇用等のための元手がかかる上に嵐による遭難や沈没といったリスクも高く、それ故に、一人の商人が個人的に手掛けるには荷が重すぎる事業でした(一夜にして破産する可能性も…)。このため、複数の商人や金融家が資金を出し合う形態の方が適しており、資本を証券化するという分散的な手法はリスク管理の面からは理に適っていたとも言えます。
加えて、東インド会社が設立された時代とは、欧州各国がアジアやアフリカの植民地支配を強める時期でもありました。このことは、政府から独占の特許状を付与された東インド会社にあっては、純粋なる貿易会社ではなく、植民地経営をも担う組織体としての政治的な側面を与えることとなります。株式会社の形態において、株主に対して総会での議決権といった経営に介入する権限を付与している理由は、案外、その出発点における政治性に求めることができるかもしれません。東インド会社にあっては、経営者、株主、並びに政府が混然一体化しているのです。
株式会社誕生の経緯にはそれ独自の時代背景を見てとることができるのですが、同形態は、起業に際して多額の資本の調達を要する事業にとりましては好都合であったため、貿易会社以外の事業にも用いられるようになり、今日、最も一般的な企業形態として定着します。しかしながら、その出発点を検討してみますと、当時の時代背景を引き摺っている故に、必ずしも、現代という時代の経済に適合しているわけではありません。例えば、強すぎる株主権、あるいは、経営と株主との未分離は、幾つかの問題を提起しています。
通常、債務者が債権者に対して債務を返済すれば、両者の関係は完全に切れます。ところが、株式会社の発行済みの株券には、証券取引所の登場もあって、社債や直接融資とは異なる永続性という特徴があるのです。このため、企業は、常に株主から経営介入を受ける立場にあり続けます。つまり、株式会社の形態は、株主側に有利な条件を与えているのです。
また、株券の保有が経営権と結びついているため、過半数以上の株式の購入、あるいは、主要株主の地位を手にすることが、同企業の取得と同義に解されています。今日、敵対的買収であれ、友好的買収であれ、M&Aが極めて活発なのもこの仕組みによるものです。今般、日産と仏ルノーとの統合問題で注目を集めているように、複数の企業の上部に持ち株会社を設ける方式は、企業結合の一つのスタイルともなっています。いずれにせよ、株式取得による企業買収は、企業側からしますと、自社の主体性、あるいは、独立性を失うことを意味します。人身売買とまでは言わないまでも、たとえ相手企業が抵抗しても、‘お金で買い取る’ことは可能なのです。この側面は、競争法の観点からすれば、独占・寡占のみならず、個々の企業の自由な経済活動を阻害する集中の問題をも提起しています。
加えて、証券市場を舞台とした投機行為がバブルとその崩壊を、幾度となく引き起こしてきました(金融家による仕掛けや八百長もあり得るかもしれない…)。経営に問題がなくとも、金融危機の発生によって経営が傾いたり、株式の暴落で企業が潰れるケースもあるのですから、経済や人々の生活の安定という側面からしますと、罪深い面でもあります。
グローバル化の中で経済大国に成長した中国の巨大企業は‘現代版東インド会社’とも言え、政治と経済が混然一体化しています。株式会社の制度が株主に有利である点を考慮しますと、この形態は、中国、あるいは、同国の債権者の世界支配戦略にも有利に働くことでしょう。共産主義はもっての他としても(究極の独占であり、改悪にしかならない…)、政治と経済の両面において様々な問題が噴出する中、その原因探求と解決への道を探るにあって、株式会社の形態を、そのプラス面とマイナス面の両面を含めて一から見直してみる作業も決して無駄ではないように思えるのです。
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本日の日経新聞朝刊の一面には、日産のゴーン前会長の逮捕事件に関連し、事件の背景として日本企業の役員報酬が諸外国と比較して低い現状を指摘する記事が掲載されておりました。‘日産からの報酬額は低すぎる!’とするゴーン容疑者の不満が、同氏をして不正行為に走らせた心理的要因と言うことになります。しかしながら、この説明、幾つかの点で疑問があるように思えます。
第1に、同記事では、役員報酬のみに注目し、国際人材獲得競争において日本企業が劣位になると説明しております。しかしながら、企業収益とは、基本的には、社員(非正規雇用も含めて…)、経営陣、株主の3者において分けられますので、仮に、役員報酬を増額しますと、ゼロ・サム関係にある他の二者に対する配分を減らす必要があります。人材獲得競争の面からすれば、社員報酬を減らせば優秀な社員が集まらなくなり、企業全体としての競争力が低下する恐れがあります(全ての企業が役員報酬の比率を高めれば、同時に消費マインドも冷え込み不況に…)。となりますと、減額対象は株主配当となるのですが、今度は、株価が下落する別のリスクが発生します(もっとも、企業収益への貢献度からすれば、社員>株主では…)。そこで、最後の手段となるのは報酬ではなく経営にかかる費用の節減なのですが、役員報酬の増額を目的とした人員削減では現場が悲鳴を上げますし、現状でも低レベルにある研究・開発費を削れば成長の芽を摘み、製品やサービスの国際競争力は低下することでしょう。日本企業が役員報酬を上げた結果国際競争力が低下し、プラスよりもマイナス面が上回るようでは本末転倒となります。
第2に挙げられるのは、ゴーン容疑者自身が報酬の不正隠蔽の動機として説明したように、巨額の役員報酬は社員の士気を下げるマイナス効果がある点です。今でこそGAFAといった情報通信分野での新興米企業がプラットフォーマーとして全世界においてトップランナーの地位にありますが、巨額報酬の慣行は、必ずしも米企業全体の業績アップに貢献してきたわけではありません。逆に、米企業の競争力の低下要因として、経営陣の巨額報酬が指摘されるケースもあるのです。日産の救世主として登場した仏ルノーをみましても、その収益の半分は日産に依存しているのですから、巨額の役員=企業業績の等式には疑問があります(巨額の役員報酬は仏ルノーにとってはプラスですが、日産にとっては利益が吸い取られてしまう要因に…)。否、役員報酬が低い会社ほど社員の士気が高くなり、企業業績にはプラスの作用する可能性もあるのです。
第3に疑問となるのは、役員報酬に関する日本企業に対する批判は、海外企業との比較によるものであり、その大前提に、海外から優秀な外国人人材を呼び込むという発想がある点です(日本人には経営の才能がない?)。しかしながら、ゴーン元会長の行動が示すように、外国人の企業トップはグローバル戦略で経営判断を行いますので、日本企業を‘捨て石’、あるいは、‘踏み台’にする戦略をも躊躇なく選択することでしょう。グローバリストの立ち位置にある外国人トップは、日本人社員のみならず、日本国や日本国民に対しても何らの責任意識もありませんので、如何なる非情な決断をも下せるのです。乃ち、今後、日本企業の多くが率先して外国人をCEO等の幹部として招くとすれば、日産と同様の事態が多数生じるものと予測されるのです。因みに、現在、参議院では入国管理法改正案が審議されておりますが、単純労働者も外国人、経営者も外国人という企業が日本国内で増加し、さらには、対日投資という名の外国企業による買収件数も増えれば、日本経済はその枠組みを失いやがて融解してゆくことでしょう(民間企業や外国が入り混じった共同植民地化?)。
そして、第4点として挙げられるのは、多様性を尊重すればこそ、企業文化も国ごとに個性があり、違いがあっても良いのではないか、という点です。日本国の協力や調和を重んじる企業文化は、幸せの共有を是とする‘一億総中流’を実現してきました。競争が激化したグローバル化の時代にあって、‘一億総中流’は古びた考え方とされておりますが、国民の皆が一定の生活レベルを確保できたのですから、人類史上稀にみる偉業であったとする評価もあり得るはずです。無理をしてまで画一化されたグローバル・スタンダードに合わすことなく、多様な企業文化の一つとして日本型モデルを維持することこそ、長期的に見れば人類の発展に寄与することになるかもしれません。企業文化や企業モデルについては、結論を急ぐ必要はないように思えるのです。
役員報酬の問題は、企業収益の適正な配分はどのようにあるべきか、といった問題に留まらず、企業文化の多様性に如何に対応すべきか、あるいは、人は何のために働くのか、さらには、経済の存在意義といった根本的な問いをも含んでおります。ゴーン日産前会長の逮捕事件は、行き過ぎたグローバリズムの問題点を洗い出すチャンスとすべきではないかと思うのです。
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近年、経済システムの近未来ビジョンとしてとして、シェアリング・エコノミーが提唱されるようになりました。‘所有から利用’への発想の転換が同システムの最大の特徴なのでしょうが、このヴィジョンには、幾つかの盲点が潜んでいるように思えます。
例えば、シェアリング・エコノミーのモデルとしてしばしば取り上げられているのが、ウーバー社に始まるライド・シェアビジネスの成功例です。報道によりますと、現在、世界70カ国の450都市 以上で事業を展開している同社が新規株式公開すれば、10兆円を超える企業価値として評価されるそうですので、同社に対する期待感は膨らむ一方のようです。その一方で、中国の同業者である滴滴出行の殺人事件も然ることながら、このビジネス・モデルを具に観察しますと、その限界も見えてくるように思えるのです。
配車アプリのビジネスとは、一般の自動車所有者が配車アプリサービス事業者に登録をする一方で、一般の利用者は、同社の配車アプリを自らのスマートフォンにインストールしさえすれば、何処にいても、スマートフォンの画面操作で同社に申し込むことで、配車サービスを受けることができます。申込者の目の前に、条件が最も適した登録済みの自動車が現れて、利用者を目的地まで乗せていってくれるのです。「白タク」と揶揄される理由も、交通サービスを提供する自動車がタクシー会社に属するものでも、個人事業者のものでもなく、一般の自家用車であるという点にあるのですが、タクシーを拾う手間や時間が省けますし料金も手ごろですので、急速に利用者を増やすこととなったのです。そして、事業者への登録一般自動車の数が多ければ多い程に同事業の利便性が向上し、ますます普及に弾みが付くのです。
しかしながら、経済システム全体において、‘所有から利用へ’をモットーとするシェアリング・エコノミーへの方向性が強まるにつれ、このビジネスは、越えがたい壁にぶつかるかもしれません。何故ならば、‘自動車とは、個人が所有するものではなく、複数の人々との間でシェアするものである’とする考え方を多くの人々が共通認識として抱くようになれば、自家用車を持とうとするインセンティヴが急速に低下するからです(実際にこの動きは、個人間カーシェアリングとして始まっている…)。当然に、配車アプリサービス事業者に登録する車数も、自家用車数の減少に連動して減ることでしょう。創業者がこの点に気が付いていたか否かは別としても、多くの人々が自動車を所有している状況があってこそ配車アプリサービスも成り立つのであり、イメージとは真逆に、同サービスは‘所有エコノミー’の申し子なのです。
シェアリング・エコノミーの問題は、配車アプリサービスに留まらず、民泊などでもそれ固有の問題を引き起こしています。もしかしますと、こうした新ビジネスは、国民の大半が自家用車を所有することが困難な中国といった人口大国、あるいは、中間層が崩壊危機に瀕している先進国諸国をも念頭に置いているのかもしれません。考えても見ますと、発想としては、私的所有に対して否定的な社会・共産主義に類似する側面もあります。シェアリング・エコノミーの時代が実際に到来するのかは疑問なところであり、実現を目の前にして、初めてそれが経済の停滞や縮小を意味することに気付く、といった展開もあり得るのではないかと思うのです。
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先日、ムニューシン米財務長官の発言が、アメリカとの間で新たな通商協定の締結に向けて交渉を開始した日本国において強い関心が寄せられることとなりました。その発言とは、「われわれの目的は為替問題だ。今後の通商協定にはそれらを盛り込みたい。どの国ともだ。日本だけを対象にしているわけではない」というものです。
同発言に日本国側が浮足立ったのは、自国通貨安への誘導を目的とした政府による為替相場における市場介入の禁止、即ち、自国の対外通貨政策の権限の放棄を意味するに留まらず、実質的に為替相場誘導効果のある金融政策にまで制約を課せられることを怖れたからと説明されています。アメリカからの為替操作国認定を回避するために、既に日本国政府は市場介入を手控えていますので、後者に対する懸念の方がより強いのでしょう。とはいうものの、この日米の構図、深く考えて見ますと、両国による自己矛盾合戦の様相を呈しているように思えます。
まず、為替条項を通商相手国に要求しているアメリカ側の自己矛盾を見てみましょう。トランプ政権の基本的なスタンスは、自由放任的な自由貿易主義やグローバリズムに対する懐疑と否定にあり、国境における政府の政策的介入を認めています。現行の通商体制では、巨額の貿易赤字のみならず、アメリカ国民の雇用機会の喪失といったマイナス影響を受けるため、関税率の引き上げを中心とした防御的政策に訴えるようになりました。防御面とはいえ、国家の戦略的政策手段の行使を認めるスタンスからすれば、他国に対しても、国境における国家の対外的権限の‘自由’は認められるべきこととなります。乃ち、日本国を含む通商相手国に対して為替政策を禁じ手とすることは、同分野における政府による戦略的権限行使を是とするアメリカにとりましては自己矛盾となるのです。
それでは、為替条項に反対している日本国側には、どのような自己矛盾があるのでしょうか。日本側の自己矛盾とは、アメリカのそれとは表裏の関係となります。日本国側の基本的なスタンスとは自由貿易主義の堅持であり、この立場に立脚する限り、外国為替市場への介入を含むあらゆる政府介入は否定されるべきこととなります。自由貿易主義とは、国境を越えた民間の自由な交易や取引に任せれば、国際競争力において劣位にある産業は相互に淘汰されるものの、予定調和的に相互利益が生じるとする説です。この立場を貫けば、政府が輸出拡大を目的に戦略的に自国通貨の相場を誘導する外国為替市場における市場介入も禁じ手となります。手段にこそ違いはあれ、輸出国の対外通貨戦略は、防御面として理解されるアメリカの関税戦略とは逆の攻撃的戦略なのです。副次的効果としての為替相場への影響を与える金融政策については、その主たる政策目的によって判断されるのでしょう(日銀の量的緩和政策の主たる目的は国内のデフレ対策にあるため、その判断は微妙…)。かくして、自由貿易主義を唱える日本国もまた、戦略的な政府介入を擁護している点において自己矛盾を来しているのです。
以上に述べてきたように、為替条項をめぐる日米の応酬は、双方の自己矛盾が交差する奇妙な構図として描くことができます。本音と建前との巧妙な使い分けと見なすこともできましょうが、通商交渉を徒に混乱させる要因となることも否めません。そして、こうした問題は、日米の二国間に限定されているわけでもないのです。将来に向けてより内外経済の整合性が高く、安定した通商体制を構築してゆく上でも、まずは、国内経済を護るための保護主義、並びに、全人類の生活レベルの向上に資する可能性を有する自由貿易主義の両者に対し、共に正当なる立場を認めてゆくべきなのではないかと思うのです。
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ビットコインと言えば、金融工学の最先端から誕生した新時代の通貨というイメージが先行しています。このため、‘新しもの好き’の人々が飛びつき、値上がりを期待した投機の対象となっているのですが、この現代のコイン、案外、その発想は旧式なのではないかと思うのです。
何故、ビットコインが古色であるのかと申しますと、第一に、そのモデルは、紙幣の誕生以前にあって希少金属から鋳造された硬貨にあるからです。ビットコインの獲得には、大量の電力消費を伴う‘マイニング’に成功する必要があります。言い換えますと、この‘マイニング’こそ、金や銀といった希少金属の採掘を意味しており、‘マイニング’に従事している人々は、古来の採掘事業者と変わりはないのです。違っている点があるとすれば、前者の事業者は、難題を解くためのITの専門知識と電力コストを負担し得る資金力を備える必要がありますが、後者は、世界各地で起きてきたゴールドラッシュに見られたように、鶴嘴を持参すれば身一つでも誰もが参加することができる点等です(ただし、個人が採掘した金塊は硬貨鋳造事業者や政府に売却する必要があった…)。
第二の理由は、その有限性にあります。しばしば、ビットコインのプラス面として、ビットコインの初期設定において発行高が予め決められており、通貨価値の下落リスクがないとする説明が為されています。今日、凡そ全ての諸国や地域が採用している管理通貨制度にあっては通貨発行の量的枠が存在しないためにインフレを起こし易く、インフレリスクにおいてビットコインは遥かに安定的な資産であるとされているのです。しかしながら、ビットコインの有限性は、プラス面であると同時にマイナス面でもあります。何故ならば、インフレは起きなくとも、発行高が設定された上限に達すれば、深刻なデフレ=通貨不足が発生する可能性が極めて高いからです(もっとも、実際にビットコインが決済通貨として一般に流通しなければ、この問題は発生しない…)。この有限性に基づくマイナス面は、金や銀といった硬貨との共通点でもあります。
以上に主要な二つの旧来の硬貨との共通点を挙げて見ましたが、これらの諸点は、ビットコインの限界をも示しています。中世にあって、ヨーロッパは、東方貿易における赤字により金銀の流出に直面しており、貨幣不足が経済の停滞を引き起こしていました。この難局を打破したのが紙幣の発明であり、確実なる支払いが約束されている信用性の高い手形、金匠の預り手形、並びに、金兌換の保障の下で金融機関が発行した銀行券等が紙幣として流通し、市中の貨幣不足を補ったのです。紙幣の登場は、必ずしも希少金属資源に恵まれていたわけではなかったヨーロッパの急速な経済な発展を支えることとなりますが、それでは、ビットコインを準備とした紙幣発行はあり得るのでしょうか。
金や銀といった希少金属は、実体を有する‘もの’であり、それ自体が使用、並びに所有価値を有します。それ故に、金本位制や銀本位制も成り立つのですが、ビットコインには、こうした通貨としての価値を支える多重的な裏付けがありません。そもそも、ビットコインには発行元となる中央銀行も存在せず(もっとも、中央銀行が発行するのは公定通貨としての銀行券であり、硬貨を発行する権限は政府にある…)、一定のビットコインと交換価値を持つ‘ビットビル’や‘ビットノート’といった‘ビット紙幣’を発行することはできないはずです。あるいは、民間金融機関が自らが保有するビットコインを準備として独自に各種紙幣を発行するという方法もあるのでしょうが、‘無’から生じたビットコインには価値の裏付けがないに等しいため(各国が発行する信用通貨の価値を支える総合的な国力とは違い、‘マイニング’という私的で個人的な労力は信用価値を生まない…)、これを元にした‘ビット紙幣’が広く一般に決済通貨として流通するとも思えませんし、単一通貨でもありませんので両替のコストもかかります。
このように考えますと、ビットコインは、金貨や銀貨よりも紙幣創造力において劣っており、ビットコインの限界を越えるためのビット紙幣の登場は、夢のまた夢なのかもしれません。ビットコインから生まれたフィンテックについては、金融テクノロジーの一つとして将来的に活用されることはありましょうが、少なくともビットコインについては、リスク回避のためにも、政府であれ、個人であれ、その限界を知ることは重要なのではないかと思うのです。
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17世紀オランダのチューリップ投機を始め、近代以降、人類は、幾度となくバブルの発生とその崩壊に見舞われてきました。1929年にニューヨーク株式市場の株価下落に端を発し、連鎖的に全世界を呑みこんだ大恐慌は第二次世界大戦の誘因ともされており、バブルの恐ろしさを余すところなく伝えております。
近年でも、2008年にはリーマン・ショックが世界経済を襲いましたが、バブルの最大の要因は、人々の‘投機’行為にあります。‘投機’とは、モノであれ、不動産であれ、株式や債権であれ、使用や保有を目的とするのではなく、将来的な値上がりを見込んで何かを買う行為であり、購買時よりも価格が上昇した時点で売れば、労せずして利益を得ることができます。人とはそもそも‘欲’をもつ生物ですし、元手さえあれば誰でも簡単にできます。かくして金銭欲に駆られた人々は、特定の市場での価格上昇傾向を目にすると、集団心理も働いて我先にと‘投機’に走るのです。しかしながら、実体経済や適正価格から離れた価格上昇が永遠に続くはずもなく、これ以上の上昇が見込めなくなった時点で、価格下落を予測した一部の人々が売りに転じます。売りが優勢になると、今度は、損失回避を急ぐ保有者が我先に売りに走るため、相場は買い局面から売り局面へと一気に転じ、バブルが崩壊してしまうのです。しかも、下落局面で底値を待ち受けて買いを仕掛ける‘逆投機’もあるのですから、‘投機’とは人の抗し難い欲望が見え隠れし、何とも罪深いものです。
近代以降のバブル崩壊がとりわけ悲惨な状況をもたらす理由は、経済の連鎖的メカニズムを通してその被害が、‘投機’行為を実際に行った人々に限定されるのではなく、一般の人々にまで広く深く及ぶところにあります。大恐慌後では、先に触れたように戦争の誘因となるほどの深刻な景気後退と失業問題を各国もたらしており、本人が意図せずとも‘自己責任’の枠を遥かに超える他害性が認められるのです。
以上にスケッチしたように、‘投機’に伴うバブルの発生とその崩壊は、当事者以外の多数の人々に犠牲を強い、経済自体に破壊的な効果を及ぼすのですが、実のところ、今日に至るまで、それを有効に制御するシステムもなければ、‘投機’に対する評価さえ曖昧のままにされてきたのが現実です(もっとも、アダム・スミスは『富国論』において投機を批判している…)。そこで、まずは、‘投機’が‘悪’と見なされる理由を探求してみると、その利己的他害性に求めることができるのではないかと思うのです。
投資を含め経済とは、他者が必要としているモノやサービス等を相互に提供し、その労力に見合った報酬や対価を得ることにありますので、基本的には利他的行為です。一方、‘投機’において利得を得るのはそれを行った本人のみであり、他者を利するところがありません。利益は自らのみに還元されながら、‘投機’行為の果てにバブルが崩壊する事態に至れば、他者の生命や身体といった基本権、即ち、生存まで脅かしてしまうのです。この側面において、利己主義に留まらない利己的他害性=悪が見て取れるのです。
“投資は良くて投機は悪い”という言い方も、利己的他害性を基準にして考えれば、その評価がよく理解できます。投資には、企業の事業を育てたり、資金面で支援するという意味において利他性がありますが、‘投機’には、利他性が全く欠如しているからです。もっとも、投資であっても詐術的、あるいは、収奪的な高利貸しのみならず、返済能力を超える過剰な貸し付けによる融資先の債務不履行リスクといった問題については、グローバル化の時代にあって金融危機や通貨危機を招きかねない点において、その悪質性は‘投機’と共通しているかもしれません。
しばしば資本主義の欠点の一つとして‘投機’の容認が指摘されておりますが、甚大な被害リスクも含めて‘投機’が悪である理由が広く人々に理解され、皆が共有する一般常識となれば、バブルの制御も容易になることでしょう。リーマン・ショック以降の中央銀行の量的緩和政策により、世界的な‘カネ余り’に起因する金融危機の再発が懸念される今日、賢くこの危機を回避するのは、自己利益を最大化するようプログラミングされたAIではなく、他者を思いやる心を持つ人類の仕事であると思うのです。
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トランプ大統領、WTO脱退計画を否定
自由貿易主義に背を向けてきたアメリカのトランプ大統領は、遂に、WTOからの脱退を示唆したと報じられております。この発言は、即、否定されたとはいえ、仮に同方針が実現すれば、戦後の国際通商システムの大転換となるのですが、その根本的な原因は、自由貿易主義理論に対する過信であったのかもしれません。
近現代における自由貿易体制には、二つの波があったとされています。その一つは、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、抜きんでた生産力で「世界の工場」と化したイギリスを中心とした自由貿易体制であり、1860年頃にピークを迎えています。この体制は、やがて新興国であったアメリカの挑戦を受けると揺らぎ始めます。世界大のブロック経済化を経て、第二次世界大戦における連合国側の勝利を機にブレトン・ウッズ協定、並びに、GATTが成立すると、アメリカを中心とした自由貿易体制が誕生するのです。何れの自由貿易体制も、牽引役となるイギリス、及び、アメリカといった経済大国が存在しておりました。
ところが、こうした自由貿易主義の旗振り役の国が永遠にトップの地位に留まることができるのか、というと、イギリスの衰退に象徴されるように、そうではないようです。関税や非関税障壁の撤廃を意味する自由貿易主義には、当然に国際的な自由競争が伴いますので、仮にトップの座を維持できるとすれば、それは、国際競争力における優位性を維持している場合に限られます。しかも、こうした自由貿易の中心国の通貨は、ブレトン・ウッズ体制における固定相場制に典型的に見られたように、貿易決済、海外投資、及び、外貨準備等に用いられる国際基軸通貨としての高い安定性を強く求められます。結果として、自国通貨高=米ドル高となり、自国製品の輸出には不利となるのです(自国通貨高により、「世界の市場」として輸入品は増加する一方で、他の対米輸出諸国は潤う…)。言い換えますと、自由貿易主義体制には、‘盛者必衰の理’の如く、‘中心国必衰’のメカニズムが組み込まれているのです。そして、この傾向は、グローバル化の加速によって、自由貿易が想定してきた財のみならず、サービス、資本、労働力、知的財産、情報等が自由に移動する時代を迎えると、新興国の台頭も手伝って、中心国の衰退に拍車をかけるのです。
かくして、アメリカもまた衰退に見舞われるのですが、自由貿易体制が、中心国の犠牲と寛容の下で維持されてきたとしますと、今般、アメリカがWTOからの脱退を模索しているとしますと、それは、自由貿易体制の中心国としての重荷を降ろす意向を示したことを意味します。と同時に、国際通商体制もまた変容を迫られるのであり、全ての諸国に対して劣位産業、あるいは、国際競争力に劣る分野に対して淘汰という犠牲を強いる現行の体制が望ましいのか、という根本的な問題に直面することとなりましょう。リカードに始まる比較優位説では、非情な淘汰を当然のプロセスとして正当化し、競争上の重要な勝敗の決定要因となる‘規模’の格差問題も看過されていますが、アメリカのWTO離脱問題は、古典的な理論に固執することなく、現実を見据えた新たな国際通商体制を再構築すべき時期の到来を告げているのかもしれません。
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本日の日経新聞朝刊の一面は、日本企業の役員報酬にも‘グローバル化’の波が押し寄せ、「1億円プレーヤー」が500人を越える現状を伝えていました。上位10人の内、5人は外国人ですが、その理由は、グローバル化競争を強いられる企業は、「プロ経営者」と呼ばれる外部人材を登用せざるを得ない状況に追い込まれているためと説明されています。
役員報酬を高く設定することこそ、恰も当然の既定路線の如くに扱っているのですが、‘グローバル化の波’に呑まれなければならない、というその考え方こそ、実のところ、根拠なき固定概念ではないかと思うのです。何故ならば、役員報酬を高くすればするほど、比例的に高い経営パフォーマンスが実現するとする説は、信憑性が薄いからです。
日本企業よりも桁違いに役員報酬が高いアメリカ企業を見ましても、必ずしも全ての企業が経営に成功しているわけではなく、むしろ、高すぎる役員報酬が問題視されるに至っています。著しい報酬格差は他の一般社員の労働意欲を削ぎますし、自社に対する帰属意識や愛社精神も低下させます。海外企業の社員は、”職業とは生活に必要となる所得を得るための手段でしかない”と割り切っているのでしょうが、‘働く’ということが、人々の活動時間の大半を占めている以上、個人主義に徹し、役員と一般社員との間に高い垣根を設ける‘グローバル・モデル’というものが、人類にとって必ずしも最適な企業モデルであるとは言えないように思えます。しかも、社員への利益還元が低い状態では、個人消費も伸び悩みますので、経済の連鎖性が働いて企業自身もめぐりめぐってマイナス影響を受けます。
こうしたマイナス点を踏まえますと、日本企業の役員報酬上げは、いわば、周回遅れの失敗策となる可能性も否定はできません。日本モデルでは、終身雇用や正社員主義等に加えて、企業内部における報酬格差の小ささが社員間の連帯性を強め、全社員の目的の共有が各自の意欲を引き出すことで、組織としての強みを発揮してきました。もちろん、‘村社会’と揶揄されてきたように、連帯性や協調性を尊ぶ企業共同体的な日本モデルにも欠点がないわけではありませんが、必ずしも、‘グローバル・モデル’よりも劣っているとは言えないはずです。仮に、日本モデルが’ダメ・モデル’であるならば、今日、経済大国とはなり得なかったでしょうし、むしろ、‘グローバル化の波’に同調し始めてから日本企業は自らの強みを失い、日本経済の衰退も加速化しているようにも見えるのです。
‘グローバル化の波’とは、一見、開放性が強調されるために、より自由な世界へと人々を誘っているかのようですが、その実、他のモデルを追求するのを許さないという硬直した不寛容性があります。グローバル・スタンダードに関連して指摘されるように、画一化された規格や基準が最適ではない場合、一体、どのようにしてより優れたスタンダードに移行するのか、という問題にしばしば直面するのです。自由な競争状態が確保されていれば、より優れた方の採用が拡大したり、新たな参入者の挑戦を受けてスタンダードが変更されることもあり得ますが、一旦、グローバル・スタンダードが確立し、不動の地位を得てしまいますと、そこには自ずと独占問題が発生するのです。
自由を標榜してきたはずのグローバル化が自由を失わせるという深刻な矛盾を直視すれば、日本国は、むしろ、企業モデル間競争を通した経済の伸びやかな発展のためにこそ、日本モデルを維持する、あるいは、欠点を是正しつつ長所を生かして改良し、その良さを世界に向けてアピールしてゆくべきではないかと思うのです。この考え方は、競争メカニズムに照らしても是認されますし、脱するべきは、‘グローバル・モデル’を唯一絶対の企業モデルとみなす硬直した思考なのではないでしょうか。
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本日の日経新聞朝刊の一面には、“企業のドル債務 膨張”とする見出しで、世界の企業がドル建てでの債務を拡大させているとする記事が掲載されておりました。同記事は、ドル高が進めば新興国に打撃を与えかねないとして警戒を促しています。
ドル高が債務国に対してダメージを与える主たる理由は、自国通貨で換算すれば債務の返済額が拡大するところにあります。特に、“自転車操業的”で借り換えを行う場合、借入時よりも借り換え用のドル調達に際して相場が上がっていると、それだけで支払額が上昇するため、財政リスクが深刻化するそうです。また、ドル高に加えてFRBが利上げをすれば、金利の全般的な上昇や国内からの資金流出も予測され、ドル債務を抱える諸国は、ドルの動向に神経を尖らせざるを得なくなるのです。
こうした問題は、実のところ、“早すぎたグローバリズム”の問題をも浮き上がらせています。何故ならば、レッセフェール的なグローバリズムを信奉する人々は、関税障壁に留まらず、国境における全ての越境阻害の要因を取り除けば、予定調和的に相互利益が実現すると主張していますが、現実には、国際通貨体制一つを見ても、“グローバル市場”を支えるほどの対応力を備えていません。単一の“グローバル通貨”が存在するわけではなく、事実上の国際基軸通貨である米ドルも、上述したように、常に為替市場における相場の変動やFRBによる金融政策の影響を受けているからです。言い換えますと、グローバリズムが進展し、全ての諸国の経済が海外取引への依存度を高めれば高めるほど、貿易決済であれ、投資であれ、通貨の不安定・変動性に晒されるのです。
仮想通貨が抱える問題を過小評価したIMFの対応を見ましても、現在、国際社会が真剣に国際通貨体制の不備について問題意識を共有しているとは思えません。グローバル化の掛け声ばかりが先行し、その結果として発生する様々な問題については、まさしく、“レッセフェール(成るに任せよ)”であったとしか言いようがないのです。国家間、あるいは、企業間にあって歴然とした経済格差が存在する現状を鑑みれば、適度なグローバリズムと健全な国内経済が調和的に併存し得る経済体制を目指し、これを基礎とした上で安定した国際通貨体制の構築を試みるべきではないかと思うのです。
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今や仮想通貨ビットコインの取引価格は1万ドルを超え、時価総額は20兆円にも上るそうです。2010年から今年までの7年間で、その価格は100万倍に上昇したと言うのですから驚くばかりです。
ビットコインの価格急騰については、早、バブル論もある一方で、今後も上昇傾向は止まらないとする見方もあるようです。拡大を続けてきたビットコインの勢いが止まる理由は、バブル崩壊のみではないように思えます。
ビットコインが終焉を迎えるもう一つの理由は、価格の不安定性が通貨の基本機能―支払い手段、価値尺度、価値貯蔵手段―を著しく損なうからです。仮に、7年間で100万倍も通貨価値が変動する通貨を想定して見れば、それが、如何にリスクに満ちた状況であるのか理解できます。通貨価値が下落するインフレについては、第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレーションがよく知られていますが、その1兆倍のインフレ率に比べればケタに違いはあるものの、ビットコインは、他の一般の通貨と比較して超デフレなのです。このことは、ビットコイン表示で‘もの’やサービス等に価格を付けたり、ビットコイン建で投資や融資を行うことが困難となることを示しています。敗戦後のドイツ経済の未曽有の混乱は、ドイツ・マルクの機能不全による経済活動の破綻に依りますが、今日にあって、ビットコインの使用の拡大は、同通貨の価値下落による経済破綻リスクを背負い込むことになりかねないのです。
価値尺度としての通貨機能が果たせなくなれば、誰もが、決済手段としてもビットコインの使用を避けるようなります。バブルが崩壊すれば、資産としての価値も激減するのですから、価値貯蔵機能も危うくなります。かくして、ビットコインの市中での流通量も減少することになりましょう。通貨価値の不安定性は、中央銀行が存在せず、マネー供給量の調節機構を持たない‘前近代的貨幣’とも言えるビットコインの宿命とも言えます。
ビットコインの相場上昇には、一般企業による採用拡大など、ビットコインの一般的な流通性に対する期待も一役買っています。そしてこの期待は、期待したが故の自らの投機行為によって消えるかもしれないのです。ビットコインが投機的マネーゲームと化した結果、通貨としての基本機能を失ったのでは、もはやコインとは言えなくなります。ビットコインの相場急騰は華やかに見えながら、その弔鐘となるのかもしれないと思うのです。
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