秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

天女花(OOYAMARENGE)  SANE著

2007年05月25日 | Weblog
第五章
回想二人
江美は、マスターの知人の経営する、小さな弁当屋の仕事に就いた。偶然健二の現場の近くに、その店はあった。健二は昼時には、必ず現れた。江美は、いつかしら、健二の来る時間が、待ち遠しかった。健二の仕事が早く終わった日は、居酒屋に立ち寄り、二人でお酒を呑んで、マスターの昔話に、付き合っていた。マスターが、不意に健二に、聞いた。「健ちゃん、もしかして、江美ちゃんと付き合ってるの?」マスターが、にやけて健二を覗き込む。「まさかー、俺達、手も握ったことないんだよ。江美のアパートも知らないし。そんなこと、瑠美にでも聞こえたら、地獄絵図の展開だよ。」
「瑠美ちゃんって、あのばついちのお嬢さん。バラの好きな金持ちの健ちゃんよりひとつ年上だろー」マスターが少し眉間をしかめた。健二は、江美の生ビールをとって、一くちくちをつけて、首を曲げて微笑んだ。
「私、瑠美さんに会ったことないけど、私と同じ歳かも?」
「江美、年上だったんだー30才かーヤバイよ。独身?一回も結婚してなかったの」健二が江美の方に体を向ける。「だって、長男と一緒になったら、母親のこと、最期まで看れないでしょ。」江美がテーブルの上の、割り箸を入れたり出したりして話す。「マスター、また今度来るよ」店をでた二人は、少し冷え始めた夜の路地を、歩き始めた。「ねえ、瑠美さんから、連絡ないの」健二の背中に追いついた江美が聞いた。
「瑠美、離婚の時の条件で、一年に一度は、娘と旅行を兼ねたスキンシップに行ってるよ」健二は、少しゆっくり歩きだした。「結婚しないの」小さな声で、江美が聞いた。健二が立ち止まり、話す。「悪い奴じゃないんだわがままなだけで。」「わがまま?」
問い掛けた江美の声が、表道りのエンジン音に不意に掻き消されていく。横断歩道を過ぎれば、人待ちのタクシーの向こうに駅の改札がある。江美は少しでも長い時間、健二の近くにいたかった。丁度、信号が青から赤に点滅を始めた。江美と健二の間を縫うように、駅に向かう人々が、二人を追い越して行く。健二は立ち止まり、左手で江美をそっと制止する。信号が赤にかわった。健二が、首を二、三回振りながら江美を見つめて答えた。
「二人でいるときに野暮な話し、無しにしてくれる。時間がモッタイナイと、オモワナイ?」江美は、小さな声で、答えた。「ゴメンなさい」
いつもの、改札を抜ける。別々の乗り場に向かう。人込みの中に消えていく、健二の後ろ姿を、江美は見つめていた。「二人でいるとき」さっきの健二の声が、胸の奥で何時までも響いていた。
心の中に、長い間閉まっていた忘れかけていた感情が、江美の中でスローモーションのように、動きだした。貼られたままの、阿波踊りのポスターが、夏の余韻を残すように、剥がれかけたまま、壁にしがみ付いていた。
コメント
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