秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

天女花(OOYAMARENGE)  SANE著

2007年05月13日 | Weblog
第一章
風の行方

市街地から、山手の方角に僅かにタクシーを走らせた場所に、小さな葬斎場が見えた。数台の車が、無造作に止めていた。「着きましたよー」月並みな運転手の不機嫌な声も、今の江美には気にもならなかった。タクシーのサービス券と、お釣りをバックに無造作に詰め込んで、葬斎場の中に向かった。足が僅かに、震えていた。
見覚えのない顔が、ロビーのあちこちに立っている。数人の集まりの視線が、江美を捉らえる。小さな会釈を交わし、視線の定まらないままに、江美は受け付けに向かった。 「島田健二さんの告別式は、こちらですか」
係員らしい女性に、尋ねる。「ご参列の方ですね。ご署名をこちらのカードにお願いします」ペンを持つ手が、ぎこちなく、書き慣れた自分の名前が、小さく波うっているように、みえた。
「健二は、あっ、いえ仏さまは、どちらにいけば会えますか」 迷子になった子供のように、江美は小さな声で、尋ねた。
「右の突き当たりに、おられます。まだ今ならお別れができますよ。きれいなお顔ですよ」係員の言葉が、胸に染みた。アパートを出てから、今日初めて他人と交わした言葉だった。相変わらず江美に向けられ視線を背中に感じながら、
奥の部屋へと、向かった。掃き慣れないヒールが、指先に痛い。
真っ白な菊の花で埋めつくされていた。柩の上に、真っ赤なバラが、添えられている。バラをほんの少し避けて、そっと柩の小さな扉を、あけてみた。 健二が眠っていた。両手を胸に組まされた健二が、眠っていた。 そっと、頬に触れてみた。冷たい。今まで感じたことのない指先の感覚が、江美の全身を包んでいく。小さな声で、呼んでみた。「健二、何してるの。ふざけないで起きてよ。私今日パートやすんだんだよ。皆勤手当、どうしてくれるのよ。起きてよ。健二」
ドラマのワンシーンでこんな場面を、見たことがあった。喪服の女性が、柩に縋り付いて泣き崩れているのだ。女性の周りを、家族や友人が取り囲んであげて、彼女の背中を小さくさすってあげている。江美は、平静を演じていた。というより 健二と江美の今の時間を、現実として受けいれられないでいた。覚めない悪い夢を、見ているようで、何故か怖いくらいの、冷静が江美の背中を、支えていた。不意に、周りが慌ただしくなった。ロビーにいた数人の集まりが、椅子に掛けはじめた。受け付けにいた女性が、マイクの前に立ち、軽く指先で前髪を整えている。前列の人に、また軽く会釈をして、江美はロビーの外にでた。中年の係員らしい男が、江美の背中を追い掛けてきた。「もう、お式は始まりますよ。中にお戻り下さい。急用ですか」 「ええ」江美はお辞儀をして、係員が中に入るのを確かめて、そっと駐車場のほうに足をすすませていた。駐車場の花壇のブロックに軽く腰をかけ、入れたままのさっきのお釣りを、財布の中に戻していく。肩で大きく息をして、風に踊る小さな花を、見つめていた。しばらくすると、葬斎場の細高い煙突の先端から、ゆっくりと煙が立ち上がってきた。ほんのさっきまで、形として存在していた健二が、荼毘にふされている。陽炎のように、震えている煙は、不規則な形を繰り返しながら、風に解かされ、共に流されていく。空に包まれて立ち上がる風の行方を、江美は一人きりで見つめていた。
コメント
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