花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「NHK・Eテレ「ららら♪クラシック・ベートーベン第九の薀蓄」

2013年12月25日 14時42分42秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
NHK・Eテレ「ららら♪クラシック」では、“どこかで耳にしたあのクラシックを あなたのものに”というキャッチフレーズで、作曲家の加羽沢美濃氏と作家の石田衣良氏がクラシックをわかりやすく解説してくれます。
12月14日放送では、『たどりついた“よろこび”』と題し、ベートーベンの「第九」が取り上げられ、「第九」の音楽的な解説に加え、日本でいつから年末に歌われるようになったかなど、一般的な薀蓄などが説明されました。

毎年12月になると、日本中で「第九」の合唱コンサートが必ず開かれ、大晦日には、TVで放映れます。私の親族にも長年「第九」の合唱に参加している人がいます。 若いころは夫の転勤先の合唱団に参加して、また、転勤がなくなった現在は故郷の合唱団で毎年「第九」を歌っています。

年末にベートーベン第九が大勢で歌われるようになった由来を、「ららら♪クラシック」の中で次のように解説しています。
『若男女問わずアマチュアが合唱する参加型「第九」。そのはじまりは太平洋戦争のときに遡ります。戦地に赴く学生たちの壮行会で自主的に「第9」が演奏されたのです。彼らにとって「第九」は戦時下を生き抜くための音楽だったのでしょう。戦後復興とともに、大都市を中心に「第九」演奏会が行われはじめますが、演奏会の数は多くはありません。それなら自分たちで歌おう!と大勢の人々が集まり、東京で大規模な参加型「第九」が実現。それをきっかけに市民合唱団の「第九」を歌う会が次々誕生しました。よろこびとともに「第九」を歌える、そんな時代になったのです。』

日本でベートーベンの「第九」が演奏されたのは、徳島県にあった板東俘虜収容所のドイツ人捕虜による「ドイツ帝国青島沿岸砲兵隊オーケストラ(ハンゼン軍楽隊長ら45人編成)」が、大正7年(1918年)6月1日に収容所内で、80人の合唱団の出演を得て、「第九」を第一楽章から第四楽章まで全曲演奏したのが初演とされています。 このことは、平成18年(2006年)上映の映画 『バルトの楽園)』(監督:出目昌伸) で取り上げられました。

日本にドイツ人捕虜がいた訳は、大正3年(1914年)7月に第一次世界大戦が勃発、日本はイギリスとの日英同盟を結んでおり、英国の要請に基づいて8月にドイツに宣戦布告して、中国の青島にあったドイツ軍の要塞を陥落させましたが、日本軍に降伏したドイツ軍捕虜4715名のうち、953名を徳島にある坂東俘虜収容所に約2年10か月間収容しました。この収容所の所長は、会津藩出身の松江豊寿大佐(明治5年(1872年)福島県会津若松市生まれ。最終階級は陸軍少将。後に第9代会津若松市長)で、在任中にドイツ人捕虜を「武士道の情け」で尊敬の念を持って鄭重に接し、また、地元の住民とドイツ人捕虜を交流させたことで知られています。収容所の敷地内には、西洋野菜を栽培する農園や酪農園、ウイスキー蒸留生成工場がなどが作られ、トマトケチャップ、ハム、パン、石鹸なども製造していました。また、日本語教室が開かれたほか、講演会や演劇やスポーツも盛んで、収容所には地元の人々の見学が絶えなかったと言われています。このような雰囲気の中で、オーケストラ・コンサートが34回、月平均1回の割合で開かれ、「第九」も演奏されました。

松江所長の言う「武士の情け」とは、“ヒューマニズムや博愛”という西欧的な精神ではなく、会津藩出身者として幼少時より実感していたこと、即ち、「正々堂々と戦った者への敬意の念や、敗者に対するいたわり」を指すといわれています。
グローバル化した現代においても、単に“英語を話せる人材の育成”だけを目指すのではなく、“日本の伝統を理解でき”さらに“他者の痛みのわかる”人の育成こそが、日本に求められているのだと思います。

<松江所長のドイツ人俘虜たちへの訓示>
「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ。…」

<収容所の日本人部下への指示>
「所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。[武士の情け] これを根幹として俘虜を取り扱いたい。」

<ドイツ人俘虜「ポールクーリー」からの手紙>
『私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。』


なお、板東俘虜収容所の跡地はその後、軍の演習用兵舎や射撃場になり、第二次大戦後は町営住宅になりました。朝鮮半島からの引揚者である高橋俊治・春枝夫妻が住んでいましたが、昭和23年、裏山の藪の中にドイツ兵の墓を見つけた春江は、その後、この墓を清掃などして守り続けました。このことが、徳島新聞で昭和35年10月に報道され、11月に当時の駐日西ドイツ大使であるヴィルヘイム・ハース夫妻がドイツ人の墓参りに板東捕虜収容所跡を訪れ、春枝に謝意を示しました。そして、4年後の昭和39年にドイツから春枝にドイツ連邦共和国荒鷲十字勲章が授与されました。


(2013年12月25日 花熟里)






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