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花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

(2015)「6月の唱歌・童謡・名歌を歌う会」

2015年06月21日 15時21分58秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
6月の「唱歌・童謡・名歌を歌う会」に行ってきました。受付の方に“5月の例会は欠席でしたね。厳しくチェックしていますよ”、と笑いながら話しかけられました。今月は60名弱の出席で童謡を中心に20曲歌いました。
6月で梅雨の季節でもあり、雨にちなんだ「雨降り」、「雨」、「てるてる坊主」、「雨降りお月」、加えて、名曲中の名曲で大好きな「月の沙漠」、「みかんの花咲く丘」もあり、大変楽しく歌いました。
毎月、歌の本(楽譜)を見ながら先生の歌唱指導に従って、ピアノ伴奏で歌っていくのですが、今月からの新しい試みとして、歌詞を壁にプロジェクターで映し出して歌うことが始められました。歌唱指導の方から“他の会場(歌唱指導とピアノ伴奏の方は、毎月都内の4会場で歌の教室を開催)で、一部の高齢者から本(楽譜)の持参が負担になっているとの要望があった。楽譜での指導を基本にしたいが、古くからの参加者の要望でもあり、歌詞をプロジェクターで映し出す方法を試しに行ってみたい“との説明がありました。
会場では、映し出されて歌詞を見ながら歌っている方と楽譜を見ながら歌っている方が半々ぐらいでした。私はといえば、よく知っているつもりの歌でも、楽譜を見てびっくりさせられることが多々ありますので、楽譜を見ながら正確に歌いたいと思います。

今月の歌の中で、「蛙の笛」は子供の頃に歌ったことはありましたが、すっかり忘れていました。改めて、楽譜を見ながら、ピアの伴奏に合わせて歌ってみて、素晴らしい名曲であるとの思いを持ちました。また、「肩たたき」、「ないしょ話」の2曲は、お母さんと子どもの微笑ましい情景が浮かんできます。最近はこのような歌を聞くことは全くなくなりました。若い母親に是非覚えて歌ってもらいたいのですが、もはや無理なことなのでしょう。

1、花嫁人形(蕗谷虹児作詞、杉山長谷夫作曲)-きんらんどんすの 帯しめながら
2 肩たたき(西条八十作詞、中山晋平作曲)-母さん お肩をたたきましょう
3、かなりや(西条八十作詞、成田為三作曲)-唄を忘れた 金糸雀は 後ろの山に 
4、月の沙漠(加藤まさお作詞、佐々木すぐる作曲)-月の沙漠を はるばると
5、海(作詞・作曲者不詳)-松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は 浮かぶ 
6、あの町この町(野口雨情作詞、中山晋平作曲)-あの町 この町 日が暮れる 
7、港(旗野十一郎・林柳波作詞、吉田信太作曲)-空も港も 夜は晴れて 
8、人形(作詞・作曲者不詳)-わたしの人形は よい人形 目はぱっちりと
9、ないしょ話(結城芳夫作詞、山口保治作曲)-ないしょ ないしょ ないしょの話は
10、グッド・バイ(佐藤義美作詞、河村光陽作曲)-グッド・バイ グッド・バイ グッド・バイバイ 
11、かっこう(大浦正美作詞・ドイツ曲)-かっこう かっこう どこかで
12、雨降り(北原白秋作詞、中山晋平作曲)-あめあめ ふれすれ かあさんが
13、雨(北原白秋作詞、弘田龍太郎作曲)-雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし
14、てるてる坊主(浅原鏡村作詞、中山晋平民謡)-てるてる坊主 てる坊主
15、かたつむり(作詞・作曲者不詳)-でんでん虫々 かたつむり 
16、雨降りお月(野口雨情作詞、中山晋平作曲)-雨降りお月さん 雲の影 
17、蛙の笛(齋藤信夫作詞、海沼実作曲)-月夜の田圃で コロロ コロロ
18、あの子はたあれ(細川雄太郎作詞、海沼実作曲)-あの子は たあれ たれでしょうね
19、みかんの花咲く丘(加藤省吾作詞、海沼実作曲)-みかんの花が 咲いている
20、青い山脈(西条八十作詞、服部良一作曲)-若く明るい 歌声に  
(20曲)

「蛙の笛」(齋藤信夫作詞、海沼実作曲)
月夜の田圃で コロロ コロロ
コロロ コロコロ なる笛は
あれはね あれはね
あれは蛙の 銀の笛
ささ 銀の笛

あの笛きいてりゃ コロロ コロロ
コロロ コロコロ 眠くなる
あれはね あれはね
あれは蛙の 子守唄
ささ 子守唄

蛙が笛吹きゃ コロロ コロロ
コロロ コロコロ 夜が明ける
ごらんよ ごらんよ
ごらんお月さんも 夢見てる
ささ夢見てる
 

(2015年6月21日 花熟里)




「(2015)4月の唱歌・童謡・名歌を歌う会」

2015年04月26日 17時34分16秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
4月の「唱歌・童謡・名歌を歌う会」では、春にちなんだ歌や童謡などを中心に20曲を歌いました。数多い春にちなんだ歌の中から、「春の歌」、「さくらさくら」、「花かげ」、「春が来た」、「春の小川」、「蝶々」、「ぼろ月夜」、「花」の8曲でした。
歌唱指導されている方が、「従来とはアレンジが異なっているのに気づきましたか? 歌っているときに気付いた方もいたようですが、ピアノ伴奏をよく聞いてください。」として、詳細な歌唱指導がありました。この歌の会は12年間続いているそうですが、一つの曲でも様々なアレンジで歌うようにしているようです。
たとえば、「汽車ポッポ」は蒸気機関車ゆっくりと動き始め、次第にスピードを上げてゆくのをイメージして、「一番の歌詞の出だしはゆっくりと歌い、歌詞の2番はテンポを上げて歌う」というように今年はアレンジを変えていると説明がありました。また、春にちなんだ歌は、今年は全体的にテンポの良い軽快なアレンジを選んだと話されていました。
「小鳥の歌」(芥川也寸志作曲)は、私は初めて聞きましたが、童謡にしてはなかなかむつかしいのですが、小鳥の声を模したメロディが素晴らしい曲です。
蝶々(野村秋足作詞)、子供の頃よく歌ったものですがスペイン民謡とは全く知りませんでした。よく知っている童謡も年齢を積み重ねて再び味わい歌ってみると、新たな発見があります。
「風」(西条八十訳詩、草川信作曲)は、歌っているときは、「なぜ西条八十“訳詩”なのだ“作詞”の間違いではないのか」と思いましたが、調べてみるとイギリスの詩人クリスティーナ・ロセッティ(1830~1894)の詩を西条八十が訳詩、これに草川信が曲をつけたものと知りました。英語に堪能な西条八十だからこその名訳だと思います。西条八十は、新約聖書のヨハネによる福音書3章8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれたものもみなそのとおりである。」にヒントを得てこの訳詩を作ったとも言われています。なお、宮崎 駿監督のアニメ「風たちぬ」では、主人公の二郎が紙ひこうきを折りながら、西条八十による訳詩を口ずさんでいます。


1、春の歌(野口雨情作詞、草川信作曲)-桜の花の咲くころは うらら うらら
2、さくらさくら(日本古謡)-さくらさくら 野山も里も
3、花かげ(大村主計作詞、豊田義一作曲)-十五夜お月様 一人ぼち 桜吹雪の 
4、春が来た(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)-春が来た 春が来た どこに来た
5、春の小川(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)-春の小川は さらさらいくよ
6、赤い鳥小鳥(北原白秋作詞、成田為三作曲)-赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 
7、小鳥の歌(与田準一作詞、芥川也寸志作曲)-小鳥はとっても 歌が好き 
8、仲良し小道(三苫やすし作詞、河村光陽作曲)-仲良し小道は どこの道
9、赤い帽子白い帽子(武内俊子作詞、河村光陽作曲)-赤い帽子 白い帽子 仲良しさん
10、ひらいたひらいた(わらべ歌、中山晋平編曲)-ひらいた ひらいた なんの花が 
11、汽車ポッポ(本居長世作詞・作曲)-お山の中行く 汽車ポッポ
12、とんび(葛原しげる作詞、梁田貞作曲)-飛べ飛べとんび 空高く
13、七つの子(野口雨情作詞、本居長世作曲)-からす なぜ啼くの
14、蝶々(野村秋足作詞、スペイン民謡)-ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ
15、風(西条八十訳詩、草川信作曲)-誰が風を 見たでしょう 僕もあなたも 
16、緑のそよかぜ(清水かつら作詞、草川信作曲)-みどりのそよ風 いい日だね
17、おぼろ月夜(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)-菜の花畠に 入日薄れ
18、夕焼け小焼け (中村雨紅作詞、草川信作曲)-夕焼け小やけで 日が暮れて
19、花 (武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲)-春のうららの隅田川
20、青い山脈(西条八十作詞、服部良一作曲)-若く明るい 歌声に  
(20曲)

「風」(西条八十訳詩、草川信作曲)
誰が風を 見たでしょう
僕もあなたも 見やしない
けれど木の葉を ふるわせて
風は通りぬけてゆく

誰が風を 見たでしょう
あなたも僕も 見やしない
けれど樹立が 頭をさげて
風は通りすぎてゆく


クリスティーナ・ロセッティの詩
「Who has seen the wind?」
Who has seen the wind
  Neither I nor you
But when the leaves hang trembling
  The wind is passing thro

Who has seen the wind
  Neither you nor I
But when the trees bow down their heads
  The wind is passing by.


(2015年4月26日 花熟里)



「フォレスタの別れの磯千鳥」

2015年04月04日 13時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
月曜日のBS日テレ「こころの歌」(3月30日、昨年11月10日の再放送)で「別れの磯千鳥」が歌われました。 「別れの磯千鳥」は井上ひろしの歌で知られています。 一番を榛葉樹人さん、二番を内海万里子さん、三番は両者のデュエット。また、中安千晶さんと大野隆さんがハーモニーで支えています。 井上ひろしの歌はハワイアン調ですが、フォレスタの歌は軽快なポップス調で、上品に仕上がっています。 榛葉さん・内海さんの歌と中安さん・大野さんのハーモニーの素晴らしさは勿論ですが、曲のアレンジの素晴らしさにも感嘆しました。この絶品のアレンジで奏でる南雲さんのピアノ伴奏に聞き入ってしまいます。間奏の時、画面にアップで映し出される南雲さんの気持ちよさそうな表情がアレンジの素晴らしさを表しています。井上ひろしの歌とともに、フォレスタの「別れの磯千鳥」も大好きな曲になりました。

この歌の成り立ちの詳細は未だに不明のようです。 まず、作曲者のフランシス座波(座波嘉一、ハワイ生れの日系二世)が、昭和15(1940)年に作曲の勉強のためレイモンド服部(服部逸郎)を頼って来日しますが、翌昭和16(1941)年12月、太平洋戦争開戦直前の最後の船でハワイに戻ります(1949年に35歳で死亡)。帰国の際に、この「別れの磯千鳥」の楽譜を持っていたといわれていますので、作曲は1941年(昭和16年)と推測されています。 第二次大戦中、イタリア戦線に出兵した日系アメリカ人部隊(第442部隊)の兵士の間でよく歌われ、戦後もハワイ日系二世の間でよく歌われた、という記録があります。昭和27年(1952年)、近江俊郎がハワイ公演した時に持ち帰り、日本でレコーディングして知られるようになりました。
作詞者の副山たか子は、フランシス座波が日本に滞在した時のガールフレンド(?)で、フランシス座波との別れの気持ちを詩にしたもので、フランシス座波が帰国の船の中で曲をつけたとも言われています。 井上ひろしが、昭和53年(1961年)にリバイバルヒットさせ、この年の 第12回のNHK紅白で「別れの磯千鳥」を歌っています。


「別れの磯千鳥」
作詞:副山たか子
作曲:フランシス座波
唄 :近江俊郎(昭和27年)、井上ひろし(昭和53年)

(一)
逢うが別れの始めとは
知らぬ私じゃないけれど
切なく残るこの想い
知っているのは 磯千鳥

(ニ)
泣いてくれるな そよ風よ
望み抱いたあの人に
晴れの笑顔がなぜ哀し
沖のかもめの 涙声 

(三)
希望の船よ銅鑼の音に
いとしあなたの面影を
はるか彼方に消えてゆく
青い空には 黒けむり



(2015年4月4日 花熟里)


(2015)「3月の唱歌・童謡・名歌を歌う会」

2015年03月22日 12時37分19秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
3月の唱歌・童謡・名歌を歌う会では、16曲を歌いました。卒業シーズンと春にちなんだ歌が取り上げられていました。別れ&卒業シーズンにちなんだ曲は、「思い出のアルバム」、「仰げば尊し」の2曲で、春にちなんだ曲は、「春よ来い」、「どこかで春が」、「早春賦」、「さくらさくら」、「春の唄」「花」の5曲でした。
かつて、卒業式で歌われた定番の歌「仰げば尊し」は、昨今ではほとんど歌われなくなりました。「歌う会」の参加者は中高年ばかりで、皆さん歌った経験がありますので、歌いながら目頭を押さえている方も少なからず見受けられました。私も胸にジーンとくるものがありました。

明治初期に多くの唱歌が作られましたが、スコットランドやイングランド、ドイツ、アメリカ、さらには讃美歌など西欧の曲の中から選曲、歌詞は日本語に翻訳するのではなく、新たな日本語の歌詞をつけることにより、日本的な文化をつく出すという壮大な事業が行われました。今日まで連綿として歌い継がれてきた唱歌は、先人たちの血のにじむような努力の結晶です。この素晴らしい遺産を若い世代にも歌い継いでもらいたいと願っています。

さて、「仰げば尊し」ですが、私の持っている“野ばら社:愛唱名歌”には“作詞・作曲者が不詳”とあります。最近では、文部省の音楽取調掛長の伊澤修二が選曲、歌詞の原案を作成し、音楽取調掛の3氏(大槻文彦・里見義・加部厳夫)が歌詞を合議で推敲し完成させたというのが有力なようです。
歌詞が素晴らしいことは勿論ですが、メロディにも心に響くものがあるように思います。原曲は、アメリカの「Song for the Close of School」(卒業の歌)とされています。(作詞:T・H・ブロスナン、作曲:H・N・D)。この曲は、8分の6拍子・ホ長調ですが、短調的な「ミミファソー」で始まり、其の後も随所に短調的なメロディが出てきます。このためか全体的に哀愁を帯び心に響きます。

「朝はどこから」は久しぶりに歌いました。Wikipediaによると、1946年(昭和21年)3月、朝日新聞が健康的なホームソングを全国に募集、1万通を超える応募の中から一等当選歌となったもので、ラジオ歌謡として東京放送合唱団の歌唱によってラジオで流され、岡本敦郎のデビュー曲でもあるとされています。
朝日新聞は、戦中は最も大政翼賛的な紙面で国威発揚に加担した新聞ですが、終戦後には、反軍国・民主的なうねりに便乗して、「希望の家庭から 朝が来る来る 朝が来る おはよう おはよう」という歌詞(「朝はどこから」の一番)に端的に見られるように、明るい日本を築く呼びかけをするなど、スタンスを急変させ、所謂“進歩的文化人”の拠点になり、其の後は、慰安婦問題の捏造に見られるように、日本を貶めるキャンペーンに固執します。 今、体質の改造中のようですが、果たしてどのような体質の新聞社になっていくのでしょうか。

<歌った曲>
1、春よ来い(相馬御風作詞、弘田龍太郎作曲)-春よ来い はやく来い あるき始めた
2、どこかで春が(百田宗治作詞、草川信作曲)-どこかで「春」が生れてる
3、早春賦(吉丸一昌作詞、中田章作曲)-春は名のみの風の寒さや
4、思い出のアルバム(増子とし作詞、本多鉄麿作曲)-いつのことだか思い出してごらん
5、あおげば尊し(作詞:作曲者は別記)-あおげば尊し 我が師の恩 教えの庭にも
6、砂山(北原白秋作詞、中山晋平作曲)-海は荒海 向こうは佐渡よ
7、荒城の月(土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲)-春高楼の 花の宴 
8、待ちぼうけ(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)-待ちぼうけ 待ちぼうけ
9、朝はどこから(森まさる作詞、橋本国彦作曲)-朝はどこから 来るかしら
10、兎のダンス(野口雨情作詞、中山晋平作曲)-ソソラ ソラ ソラ 兎のダンス
11、汽車(作詞不詳、大和田愛羅作曲)-今は山中 今は浜 今は鉄橋 渡るぞと
12、霞か雲か(加部敏夫作詞、ドイツ民謡)-霞か雲か はた雪か
13、さくらさくら(日本古謡)-さくら さくら 野山も里も
14、春の唄(喜志邦三作詞、内田元作曲)-ラララ紅い花束 車に積んで 
15、花(武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲)-春のうららの隅田川
16、青い山脈(西条八十作詞、服部良一作曲)-若く明るい 歌声に  
(16曲)


<wikipedia より転載)>
「Song for the Close of School」原詩

We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

Farewell old room, within thy walls No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song, Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee, The school-room of our youth.

Farewell to thee we loved so well, Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full, And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets, When school-mates say "Good Bye."

(直訳)
私たちは今日別れ、まためぐり逢う、きっと、神が私たちをその御下へ招く
時に。
そしてこの部屋から私たちは歩み出て、自らの足で一人さまよう。
幼年期から今日までを共にした友は、生き続けるだろう、過去の中で。
しかし、光と愛の御国で、最後には皆と再会できるだろう。

さよなら古き部屋よ、汝の壁の内で、楽しく集うことはもう無い。
朝に声を揃えて歌うことも、午後の賛美歌も、もう繰り返すことはない。
だが、幾年も後の未来に、私たちは愛と真実の場を夢見る。
私たちの最も大切な思い出は、汝、幼き日々の教室となるのだろう。

さよなら私たちがかく愛した汝よ、さよなら親愛なる級友たちよ。
私たちの魂を、幸せなひとつの繋がりとしてきた絆は解かれた。
私たちの手は固く握られ、心は満ち、そして目には涙をたたえ。
ああ、これぞ惜別の時、級友たちの言葉は「さよなら」。


(2015年3月22日 花熟里)


「NHK朝ドラ・マッサンと石狩挽歌」

2015年03月05日 12時20分08秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
NHK朝ドラの「マッサン」では、ニシン漁の網元の ”森野熊虎” の旧宅(ニシン御殿)を従業員の食堂にしています。“森野熊虎” は、かつてニシン漁で財をなしたものの、ニシンが来なくなり、生活に窮し土地と自宅をマッサンにウイスキー工場用に譲渡したとして描かれています。 ニシン漁は、北海道の日本海が主な漁場であり、江戸時代松前藩によって管理されていましたが、明治時代に入ると自由に行われるようになりました。明治に入り漁獲量も次第に増え、明治27年(1897年)には97万トンとピークを迎え、その後の明治期~大正前半:50万トン~70万トン、大正後半:40万トン~50万トン、昭和初期:30万トン~40万トンと次第に減少していき、朝ドラの舞台と思われる昭和10年代には10万トン~15万トン、中でも昭和13年(1938年)にはわずかに1万トンに激減します。 ニシン漁の復活に賭ける夢を抱くものの、生活が破綻している ”森野熊虎” に象徴されるようにニシン漁の網元が没落していった背景がよくわかります。 
昭和18年~20年には30万トン台に回復しますが、其の後は急速に減少していき、ついに昭和32年(1957年)に日本海の春ニシン漁は終わります。

ニシンがいなくなったのは、海水の温度が高くなったから、取り尽くしてしまったから、気まぐれな魚だからと諸説があるようですが、真相は不明です。ニシンは、主にニシン粕として肥料に利用され、加工された身欠鰊、カズノコ等は食用として、北前船に乗り主に関西方面へ運ばれました。大正末期から食料需要が次第に増加し、太平洋戦争中及び戦後の食料難の時代にいたって食料が肥料を上回るようになりました。

北原ミレイさんの代表曲「石狩挽歌」の歌詞の二番に、打ち捨てられたままのニシン御殿が出てきます。
「あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も 
今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」
また、歌詞の一番に出てくる ”笠戸丸” は、ハワイ移民やブラジル移民船として活躍した後、台湾航路,南米航路,日本海の鰯工船や蟹工船として利用されましたが、昭和20年(1945年)、ソ連軍に捕獲され爆破されました。

北原ミレイさんの歌は、独特のハスキーな声で聴く者の心に突き刺さるような強烈な印象を与えます。 フォレスタも「石狩挽歌」をBS日テレの“心の歌”で歌っています。 一番を力強くハリのあるソプラノの上沼純子さん、二番を低いパンチの効いた腰の強いメゾソプラノの吉田静さんが歌い、ソフトなソプラノ3名(中安さん、白石さん、内海さん)が途中から合唱で入ります。 もともと歌唱力のある上沼さん、吉田さんですが、石狩挽歌ではさらに声に力を籠めてわびしさ・寂しさを表現しています。本家の北原ミレイさんにも勝るとも劣らない歌に仕上がっており、聴く者の心を惹きつけます。 御年66歳の北原ミレイさんのあとを引き継いで「石狩挽歌」を歌えるのは、フォレスタだと印象づける歌唱です。

「石狩挽歌」
作詞:なかにし礼、作曲:浜圭介作曲(昭和50年)
1 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
  赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
  雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
  わたしゃ夜通し 飯を炊(た)く
  あれからニシンは どこへ行ったやら
  破れた網は 問い刺し網か
  今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロー
  沖を通るは 笠戸丸
  わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る


2 燃えろ篝火 朝里(あさり)の浜に
  海は銀色 ニシンの色よ
  ソーラン節に 頬そめながら
  わたしゃ大漁の 網を曳(ひ)く
  あれからニシンは どこへ行ったやら
  オタモイ岬の ニシン御殿も
  今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー
  かわらぬものは 古代文字
  わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る


(2015年3月5日 花熟里)