岡倉天心は、明治初期の極端な西洋崇拝の動きに対して、日本美術の再興に力を尽くしたのだが、単なる保守派に留まるような人格ではなかったようだ。
米国とインドを旅行し、茨城の五浦を理想の地として日本美術院を移転したのだが、その後赤倉をもう一つの拠点としようと考えたようだ。
天心の死後、五浦の六角堂を模した、このお堂が建てられた。
天心は赤倉に広大な土地を購入するとともに、高田の富貴楼なる料亭を移築したという。
今日、残されているのは天心の死後に建てられたお堂だけである。旅館を移築されたのは、お堂の背後の比較的開けた場所ではなかったろうかと、思われる。
米国とインドを旅行し、茨城の五浦を理想の地として日本美術院を移転したのだが、その後赤倉をもう一つの拠点としようと考えたようだ。
天心の死後、五浦の六角堂を模した、このお堂が建てられた。
天心は赤倉に広大な土地を購入するとともに、高田の富貴楼なる料亭を移築したという。
今日、残されているのは天心の死後に建てられたお堂だけである。旅館を移築されたのは、お堂の背後の比較的開けた場所ではなかったろうかと、思われる。
赤蔵にも有ったとは。
穏やかな景色、安らかに眠るには相応しい場所のようですね。
この六角堂は天心没後に建てられたようです。
それも、終戦直後だったような気もするのですが・・
天心はアメリカで「茶の本」を出版し、インドの女流詩人と手紙を交し、東洋は一つという理念を抱きながら、この地で亡くなったようです。
移築した旅館が残されていないのが、とても残念でありました。