ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

昭和30年代

2005-04-11 | 昔語り
今 何故か 昭和30年代がブームらしい。

書店で モノクロばかりの写真集を見た。
愛・地球博の‘メイとさつきの家’も人気が高く、
入場の予約方法を変えるとか。
春の全国交通安全運動のポスターのダイハツ・ミゼットも
懐かしい雰囲気。

私の中で 昭和30年代は 
セピア色の 記憶の断片でしかない。
もっとも、昭和40年代の記憶だって
前半は おぼろなのだが。


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色とりどりのヒアシンス。
満開の桜は 白黒写真で見ても
その雰囲気を感じる事はできるけど、
そのほかの花の写真は カラーでないと。

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書店で見た写真集は、
「いやん、私、こんなに古い人間じゃないワ。」
と言いたくなるような、雰囲気。

でも30年代は、確か、
戦後の雰囲気をを引きずっていたように思う。

「もはや戦後ではない。」
何代目の首相だかが そう発言した頃はまだ
田舎は 思いっきり 戦後。
というか、戦前。

高度成長の波は まだ届いていなかった。



実家の辺りは 稲作が中心だったから、
一升いくら、という 物々交換経済が残っていたし、
電気は灯りくらいしか 使うところがなかったし。

私が生まれた頃は 
つるべで井戸水をくみ上げていたというし、
煮炊きはカマドだった。

電話は 近所の商店のオバサンが走って呼びにきたし、
(なんか電話の横のハンドルを 
 くるくる回していたようだった。)
そのあと農集電話というのが出現したけれど、
これは不便なシロモノで、
一般電話に切り替えるきっかけになった。

もう、まるっきり、メイとさつきの世界。

そういえば あのアニメ映画は
娘のお気に入りだったけれど、
本当は親のノスタルジーをかきおこしたので
一生懸命ビデオに録画したのではなかったか。
(当時のレンタルビデオは 録画できちゃったのだ。)



メイとさつきが 冒頭で乗っていたオート三輪も、
未舗装の国道を走り回っていた。

車の台数が増えたら 国道も舗装されたけど、
きっと40年代に入ってからだと思う。

白黒で撮った記念写真、
我が家はミゼットではなくて、
ラビットというスクーターだった。

コロモの裾をひるがえしてお勤めに行く住職、
最近でも見かける。

その次が中古のセダン。
クラウンだった。
お金持ちになった気がしたものだ。



日本中が、
今日より明日は豊かになる、という確信と希望に
あふれていた。

けれど、‘きょうの食べ物’は そう豊かだったわけではない。

「米の飯を喰いたければ、野良さ出て働け。」
そういう土地柄だったから、
父も母も 田んぼや畑で 汗を流した。

寺に農地が残されていたのは、幸いだった。
(もちろん、ほとんどは 解放されていた。)

働けば働くだけ、収入は増えた。
(お寺は、違うけど。)

両親も寺の収入を補うために
懸命に働いていた。



年に一度しか収穫できない米。

だからいつまでも 「盆勘定、暮れ勘定」の習慣が残る。

父は子供を養うために 勤め人になった。

寺は母が支えた。

全国にそんな寺が多かった時代。


物や食べ物の豊かさは 今とは比べようもないが、
近頃 やたらと そんな昔が懐かしい。

30 コメント

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昭和30年代 ()
2005-04-11 18:07:40
まさに私の時代では有りませんか。今ブームなんですか。私はホンのさっきまで戦争をしていた。そんな混乱の中で生まれて育ったわけですが、さっきまで戦争をしていたと言うことを感じなかった。大人達もそんなことを忘れたかったのだろうか。単位の切り替えにまだ馴染まない大人達が、米の単位は勿論だが、靴や足足袋も「八文半」(はちもんはん)とかいっていたと思う。身長は何尺何寸 年齢など勿論数え年、私たちは満年齢の教育だったが、年配の方に何歳と聞かれて答えると、本当は何歳かと1歳多く言われていたのが、ふに落ちなかったことも懐かしい。



ジョルジュさんのご実家は、農業もしていたのですか。実家のやまの中の農業は、厳しく今の田圃の倍以上の耕作面積でも、収穫は同じくらいだったように聞く。それから良くも悪くも「農薬」という物が出て「いもち病」という物がなくなり、収穫はぐんと増えたらしいが、今度は米などいらない時代になり、減反政策とかで米は作っては行けない時代になってきた。



書き出したらきりがない話し、長々すみません。
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ひとむかし前って、何年前だろう (エミコ)
2005-04-11 18:28:04
昭和30年代とは、そういう時代の空気があったんですねー。

私は43年、大阪万博のあとに生まれました。

まあまあ田舎だったのでトトロを観ると、井戸や五右衛門風呂は懐かしいです。



田んぼがみるみる無くなっていくのも発展だと、ただ喜んでいました。



『物や食べ物の豊かさは 今とは比べようもないが、

近頃 やたらと そんな昔が懐かしい。』



良いものを失ったから懐かしいのですよね。

その失ったものを考えてみたいと思います。
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ご無沙汰しております。 (ひるてぃ)
2005-04-11 19:47:40
昭和の30年代、懐かしく読まさせていただきました。記憶の中にはっきり残っていますよ。

私の出身地鹿児島市内でも、まだ道路が舗装されておらず、牛車がゆっくり進み、馬糞の香りが漂っていました。水汲みも井戸水。その水汲みで体の基礎ができた気もします。

昨日からのニュースの洞窟の死亡事故も、すぐそばのもっと大きい洞窟で似たような遊びをしたのもです。他人事ではなかったw。。



PS:以前からお伺いしたかったのですが、「ジョルジュ」さんは、由来は「ジョルジュ・サンド」から採られたのですか? 的外れでしょうか(笑)

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素敵なお話ありがとう! (すみれ)
2005-04-11 23:52:26
ノスタルジーを感じさせるお話、私はジョルジユさんより歳上ですが町中に育ったせいかそのような思い出がありません。とてもうらやましい気がします・・・井戸水やかまど、そういう生活に今はあこがれます。文化生活も良いけれどやはり人間は自然とともに生きるのが一番と思う今日この頃です。貴女の文章は心が癒されます・・・づっとつづけてくださいね。カキコしなくてもいつもよませてもらっているファンがいます。
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これって (arfa)
2005-04-12 00:27:12
寄せ植え?上手だね、きれいだね!



ひるてぃさん、おひさです。お元気になられましたか?

・・・ジョルジュ・ムスタキだっけ?
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お出かけのついでに桜の下を歩いてきました (ジョルジュ)
2005-04-12 15:42:11
風さん、

ほんと、思い出すと、次々といろんなことが・・・。

キリがありません。

‘風と友達’に思い出させていただいてる部分もあるんですよ。

私の場合、トトロの世界のような風景の中で育ったこと、

親が山国の出身で 山菜取りが大好きだったこと、

父が亡くなっていないこと、

そして記録的な古い家に住んでいたのに、いま その茅葺き屋根の家が残っていないこと、

そんなこんなが 中年になった今の私に ノスタルジーを感じさせているんだと思います。

尺貫法といえば、あの、ものを吊るして重さを量る ヘンテコな横棒型のハカリ、ご存知ですか?

隣のウチの庭に入り込んで、よく見てました。

ヘンテコな子供でしたね。



エミコさん、

なあんだ、そんなにお若い方だったのね。

でも、サバ読んでません?

大阪万博は1970年、昭和45年だから、2歳だったのでは?

お勤めしていた頃、

年々若くなっていくアルバイト学生達が、とうとう

「物心付いた時には もうカラーテレビも電子レンジもありました。」

と言い出した時には、

「ああ、コイツラとは 決して分かり合えないな。。」

と思った記憶があります。

エミコさんは、まさにそんな、新人類と呼ばれた年代ですよね。

それでも完全ではないにしろ、分かり合える部分があると知って、ほっとしてます。

(いったい誰が完全に分かり合えるといえるだろうか?)

五右衛門風呂は 私は会津のおばあちゃんち(お葬式にカミシモを着ける家)で 入らされて、怖かった記憶があります。
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ジョルジュ・サンドの方が、美人そうで、よかったな。 (ジョルジュ)
2005-04-12 15:58:38
ひるてぃさん、

残念な事故でしたね。

洞窟探検、都会の子や(ここみたいな)平地の子には

できないのに。

洞窟を全部潰してしまおう、なんて 教育委員会が言い出さないかと心配しています。

むしろ、火が消えたら命の危険があるとか、

こんな時は落盤の恐れがあるとか、

そんなことを教えてほしいです。

トム・ソーヤーやハックルベリーフィンを読んで

憧れていたせいでしょうか。

近所に牛と馬がそれぞれ一頭づつ残っていましたので、

馬糞の香りも存じてます。

蚕棚の、ずっと薄いけれど独特な匂いも うっすら記憶に。

ジョルジュ・ムスタキでは、美人そうに聞こえませんね。



すみれさん、

都会の方だったんですね。

いつも読んでくださっているのですか?

うれしいです。

ヒトは自然の一部、自然と共にある、と今では感じていますが、都会に住んでいた頃は 忘れて暮らしていました。

田舎に住んでいる今の方が、幸せなのかもしれません。



arfa さん、

ありがとうございます、お褒めいただいて、ヒヤシンスも喜びます。

球根もそれぞれそこはかとなく色がついていて、

これが青い花の咲く球根、とか、わかるんですよ。

植物を見ていると、金子みすずの

「みんなちがって みんないい。」が心の中に自然にすとんと入ってきます。
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ヒヤシンス ()
2005-04-12 17:13:36
綺麗だと思っていたのに、書き込んでいたら忘れていた。。。arfaさんに先に言われてしまいました。ジョルジュさんの懐かしい風景実家では未だ健在と言いたいところですが、あの量りはもう使ってないですね。「棒量り」とでも言ったのでしょうか、分銅を重さに応じて動かして、水平になった所が何匁目(なんもんめ)とか。。いかん!ここに来ると話しが長くなる(笑)

お隣のうちは、何を量っていたんだろう。
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はかり (arfa)
2005-04-12 17:42:38
天秤棒って言わないかな?



舗装されてない道、馬車に馬糞、かまど

四つ足台のテレビ、四つ足の折り畳みちゃぶ台

ロバの蒸しパン売り、ちんちん電車で映画館へ、

伏見扇太郎、東千代助、アラカン

金五楼のおとらさん、アイラブ・ルーシー、

くろがねの三輪自動車・・・・

未来が光り輝いて見えていた時代でしたね。



苔の生えた記憶をいくらでも思い出させてくれる記事でした。
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ありがとうございます (ジョルジュ)
2005-04-12 21:07:43
風さん、

明日の朝になったら、ヒヤシンスをうんと褒めておきますね。

そうそう、なんか、重さにあわせて、横棒に何かをスライドさせてた。

お隣は(小正月に紅白餅を枝にくっつけてお祝いする家)、

農家だけど、兼業で漁をしてました。

川エビとか魚とかを量っていたんです。

キラキラ綺麗なタナゴは食べられないのでしょう、

棄てていました。



arfa さん、

天秤棒は前と後ろに荷物をぶら下げて売り歩くときの

ただの棒ですよね?あまり見た記憶がありません。

ロバのパン屋さんって、知らないし。

ちんちんは電車ではなくて、自転車のベルです。

(どどど田舎ですから。)

でも四本足のテレビは、うっすら覚えてます。

ルーシー・ショウ!名犬ラッシーにリンチンチン、ララミー牧場、フリッパー。

藤田まことに白木実の「奥歯ガタガタ」(前田のクラッカー、好きでした)、「ムチャクチャデゴザリマスガナ」のおじさん。

我が家のちゃぶ台は、アズキ色の漆塗りで、小判型でした。

あー。いろいろ思い出しちゃう。
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