BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
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「その他」がメインのブログ。

牛に引かれて

2008年12月28日 | 雑感散文


一つ前の日記で
年賀状は未だだと書いておりましたが、
夜になってようやく仕上がりましたよ、
こう、
パソコンでぱぱっと、ねぇ。

でも投函は明日。
というわけで、かみきさん、
元日以降の到着を待ってくださいな。


 

年賀状のね、
切手の所とフッターの所、
牛に引かれて善光寺
ってぇやつでございますか。
そんな画が描かれていますね。

牛に引かれて─ってのは
バンクで鳥取のあるお寺に
行ったときに聞いたお話
でございますよ、
懐かしいですね、
色々と活動しておれば、
自然と薀蓄が身につくっていう
按配でございますな。

善光寺だけではなく、
福岡の大宰府天満宮だって、
牛が関わっているのでしたね。
牛が居座った所に建立、という伝承。

牛は何かと神秘めいていて、
神がかったものがあったのでしょうか。

そういえば昔の日本人って、
牛は食べなかったのでしょうか。
あんまし聞かないような気がします。
だってね、水牛とかは
耕すための労働力として
飼っていたんだから、
食うわけにはいかんでしょうに。
食うようになったのは
散切り頭の明治以降か。

とすれば牛は
大事に飼われてきたわけだ、
食べ物としてみなかったわけだ。
それはインドの牛信仰に
遠からぬものかは。

それがいまや欧米と
引けをとらないほどに
牛を食する民族になってしまった。
いやだから、
丑年は牛を食うなと
言いたい訳じゃないのですよ、
そうではなくて、
牛に対する感謝とか畏敬、
そういうものを忘れてきて
しまったんだなぁ、と
話は戻りますが
善光寺や大宰府天満宮の
伝承を思い出すにつけ
思案を巡らすのであります。

今一度振り返れば
十二支の動物たちはみな
神様として崇められてきた。
神様だから、龍も入っているのね。
今年の干支のネズミだって、
本来は穀物を食い荒らす厄介者として
昔から駆逐が試みられてきた。
けれどもその一方で、
豊作の象徴として敬われてもきた。

それは一見すると
矛盾していることなんだけれども、
それら両面の考え方を
持ち合わせることによって、
緩和する効果を持っているんじゃ
ないだろうかと思うのですよ。
命の搾取という行為の、自然緩和。

一方では追い払ったり労働力で
こき使っているのに、
他方ではありがたやと崇める。
そうやって自然と上手いこと
付き合ってきたのが
動物を神として、また神聖なものとして
崇める所に現れてきて
いるんじゃなかろうか、と
勝手に解釈するのです。

こき使っている牛が、
そこで止まったあるいはそこに連れて来た、
信仰心が無かったら早く行けと
鞭を振るって先へ急がせただろうに、
これは神のお導きとばかり、
そこに寺や神社が出来てしまった、
というのは微笑ましいではございませんか。

来年の丑年から、
今一度動物への「信仰心」というものを
見つめなおすというか、
郷土のそういった伝統を探して
見るってのも面白いやも
知れませんな。

面白い話がありましたら教えてな。


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