いじめの問題 4 言葉の可能性と壁

いじめの問題 4 言葉の可能性と壁    2018.01.23.

教育は、一般的に言葉で行われる。またいろいろな報告も言葉で行う。しかし言葉は、様々な問題を含んでいることを理解しておかなければならない。

 言葉で表されたものは、各個人の経験によって理解がかなり異なっている。特に経験に基づく言葉は、各人の経験の差によって異なる場合が普通である。心理学者のユングは、「同じ経験をしたものでなければ、同じ言葉として理解されない」という意味のことを書いている。このことは重要な意味を持ち、相手がうなずいて聞いていても、必ずしも話している人と同じ意味に受け取られていないことを意味する。この点を十分に意識して話していないと、齟齬が生じることになる。
 人は話していることに執着することが多く、自分の話したことを守られないと怒りが生じる場合がある。相手に理解されると思っていると、行動が予想外の時に怒りを生じやすい。特にいじめ問題などは、抽象的表現になり、いじめられている本人の体験的感覚とはずれることが多い。

幾つかの例を考えてみよう。
熱いという経験を皆さんはどの程度しているであろうか。以前に不登校の子どもの野外キャンプをしていた時に、子どもたちが真っ赤に焼けた熱い炭に触ったことがなかったことに驚いた。「熱いよ」といっても経験がない子どもは理解できず触ってやけどをする。急いで冷やして、ようやく熱い意味が理解できる。現在の便利な社会では、炭を使うことなどほとんどないであろう。また火傷によって、その後も数日痛いことが経験され、以降自然に自分から注意するようになった。このような経験をすると、やかんの熱いのも鍋の熱いのも理解できるようになる。
痛いのも同じで、痛い経験がないと痛さは理解できない。転んでひざを擦りむき痛かった場合と金槌で指をたたいて痛い場合では、かなり趣が違う。また切り傷の痛さも異なる。これらのことは経験して初めて理解されることで、経験なしには理解することは難しい。
美味い不味いなど味に関する経験もしかりである。テレビでよく見かける食のレポートも、レポーターの食の経験の浅さが目立つ。いかにも美味いように見せかける演技だけが目立ち、本来の味の探求は伝わらない。味の良し悪しは、本人の体のコンデションによるところが大きい。多くの食レポが、素材の良さなどを褒めちぎるが、本来の食材の味はいかがなものであろうか。幾日も食べないでいて、最初にありつく食は、それが重湯のような単純なものであっても、体にしみわたる食としての感じは、いかなるものにも勝る美味しさがある。戦後の食糧の無い時代に育った我々は、このような経験がありそれが食の原点であることは容易に理解できる。原点を理解できずに、いろいろと末葉なことに走るのは、現代の風潮であろうか。このことは人生についても言えるように思われる。食の経験が浅いと、求めるものも自然と変な方向に行く。人生も原点を常に考えないと、思わぬ脇道にそれている。
いじめに関する話でも、いじめている子どもに相手の気持ちを考えさせようとしても、悲しい経験をしたことがない子どもは、相手の悲しさが理解できない。先生が説得しようとしても、出発点の経験がなければ、相手の立場に立つことも難しい。これには親子の関係が深くかかわっていて、十分な信頼関係ができていないと難しい。いじめる子どももいじめられる子どもも、親子の関係に問題を持つことが多い。誰でも何らかの問題を持つのは普通なことであるが、問題を持つ時期や内容によっては、いじめ問題に関係する。何らかのこだわりが強い人は、自分のこだわりのために子どもの状況を見誤ることが多い。特に言葉以外のサインを見落としていることがある。

言葉の壁にどのように対処するか
言葉の壁を乗り越えるのに最初に必要なことは、自分のこだわりを少なくして相手の状況を理解することから始まる。自分のこだわりを少なくするのはなかなか困難な作業で、時間も労力もかかる。その上方法も明らかではない。
私の場合を考えてみても、なかなか一般化はできない。しかしながら参考のために述べておくと、最初は臨床心理学的方法で自分の無意識に近づいた。その後「内観」などにより、さらに探求することができた。さらに仏教の修行法に出会うことができ、ようやく自分での方法が確立した。最初の心理学的方法は、無意識の心理学のユングの夢分析で、3-4年の間に750ぐらいの夢の分析をした。友人に専門家がいたことによって、することが可能であった。並行して「内観」を行っていたので、進み方も早くなったように思われる。夢分析の5年目ぐらいには、夢を見ている中で自然に自分の分析が行われるので終わりにした。その後内観を指導を頂いていた創設者の吉本伊信師が亡くなられ、次の指導者として推薦頂いていた現在の老師に出会うことができた。
私の経験からすると、最初にお会いした時には吉本師や現在の老師がどのような方であるかは、ほとんど理解することができていなかった。2-3年して初めてその得難さに驚いているくらいである。自分のレベルと異なるとほとんど理解できないものである。
自分の内面に迫る方法は、各自の個性によっても異なると思われる。しかし重要なことは、常に自分の内面を見つめようとすることとアンテナを張って機会をとらえようとすることであろう。
このような努力をして何が得られるかも報告しておこう。それまで躁鬱的傾向にあり、鬱の時には自殺を考えるほど苦労したいたいろいろな仕事が、自然に順調に進むようになって、自分でも意外であった。また学生の指導も非常に楽になり、自然にだいたい良い結果が得られるようになり、これも驚きであった。学生さんは苦労した人も多かったかもしれないが。
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