「鎌倉個道」

鎌倉の歴史、草花、食物

果樹園の中

2008-07-30 15:31:00 | Weblog
PCがクラッシュして更新が滞りました
楽しみにしてくださった方
本当にごめんなさい。
やっと治りました!

■藤沢の果樹園
私の散策コースの中に藤沢の果樹園がある。
「小池果樹園」の季節が始まった。
梨に始まり柿に終わる夏から秋には自然に足が向いている。
収穫は不定期で敷地の角に旗があることが目印になっている。

■写真を撮らせてと断って果樹園の中に入る。
丹精込めた作品が袋の中で出番を待っているようだ。


■梨の名前は「明水(あけみず)」

今年は梅雨が短かったのでこれからの雨で梨の甘味が増すんだそうだ。
馴染みになった女主人が梨を剥いてくれる。
果肉の甘さが口の中に広がる。
台風さえ来なければネ!と真顔で話してくれるのが主人らしい。

■出番を待つブドウ
網の向こうは「ブドウ」、
その次は「柿」の畑と続いている。
ブドウは8月半ば過ぎが収穫期だという。
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御霊神社の「石上さま」例大祭

2008-07-21 11:24:00 | Weblog
■海の日の長谷駅

御霊神社(ごりょうじんじゃ)の「石上さま」例大祭に出かけた。
正午過ぎの江ノ電長谷駅は焦げそうに熱い。

■御霊神社

まず御霊神社本殿にお参りする。

□祭礼の旗

境内には村祭りの旗が2本
滑車がからからと音を立てていた。

□神輿の前で神事が始まる

神輿の前で厳かに神事が始まる。
よく見ると「十六天例祭」で見かけた神官である。

□御霊神社の参道と江ノ電

御霊神社と参道の間には江ノ電が通っている。

□祝詞奏上

赤ら顔の神官の祝詞奏上。

□神楽奉納

女性の神官の奉納舞楽(神楽)である。

□参道を行く神輿

狭い参道を神輿が降りて行く。

□極楽寺坂下を曲がる

参道を出るとまず左に出てさらに右に出る。

□海岸への細道を下る

見物人も一緒になって
坂の下海岸への細道を下る。

□砂浜に鎮座する神輿

国道を横切ると砂浜に鎮座する神輿。

□海上安全祈願

泳ぎ手も参列して
海上安全を祈願する。
その後で木札が泳ぎ手に配られる。

□海に入る神輿

「海の日」らしい神事である。
神輿が海に入っていく。

□背負われた神官

続けて神官が背負われて船に乗る。

□海へ


右隅の女性2人は鎌倉ケーブルテレビの取材陣である。



□見送る浜辺の人たち

遠くなるまで見送る浜辺の人たち。

□約40分後に帰って来た船

海の中で神事が執り行われ、
船は40分後に浜辺に戻ってくる。

□帰って来た泳ぎ手たち

泳ぎ手たちも浜辺に戻る。
祭りが静かに終わり、海の安全を祈願する。
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関谷の畑

2008-07-21 10:16:00 | Weblog
季節ごとに関谷の畑を散策する。
先ごろ騒動になったゴミ処理場問題は白紙になった。

夏野菜の収穫期である。
オクラの花の美しさは見る人を驚かせる!


ナス(茄子)の花。
もうすぐ秋ナスの季節である。


シシトウの花は白い。
トウガラシと同系統の実である。


花ではないがトマトの彩りも豊かである。


こちらは胡瓜(キウリ)の花だ。


瓜系統の花の色は黄色である。
最近ではメロン系統に押されてしまったが、
マクワウリの甘みも懐かしい。


インゲンの花と豆。
棚を作って這わせている。
農家の人は忙しすぎて収穫する時間がないらしい。
とうもろこし畑のそばの女性は
「実る前にカラスに食われちまう」と嘆いていた。


野菜ではないがカラスウリが実をつけていた。
よく「ウリ坊」と呼ばれる模様である。


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フラワーセンターのハス

2008-07-19 05:58:00 | Weblog
神奈川県立植物園
大船フラワーセンターでは毎年今頃になると
「ハス(蓮)」の早朝鑑賞会を開催する。

初日の7月19日(土)5時過ぎに起きて出かける。
定刻の6時5分前 、既に数十人が並んでいる。
半数以上が入場料無料の65歳以上である。


早朝に開花したハスは神々しいまでに美しい。


当日配布された資料から引用する。(カッコ内は筆者)
 開花1日目は午前5時ごろから開き始め、8時頃には閉じ、
 2日目は午前7時から9時頃までおわん型に開き、
 昼ごろには閉じます。
 3日目には早朝におわん(お椀)型からさら(皿)型まで開き、
 午後には少し閉じますが、半開きの状態で終わり、
 4日目には完全開花した後散り始め、
 午後は花托(かたく)だけが残ります。
 一番美しい時は、2日目の朝の花と言われています。
最後の一行はゴシック体で太く書かれ筆者の気持ちを表している


さらに説明が続く。
 中国やインドにおいてもはす(蓮)の花は、
 文化や仏教と深いかかわりを持っています。
 庭園に植栽されるほか、装飾画に描かれたり、
 仏教芸術では仏が蓮華座(れんげざ)に座し、
 多くの仏典にも登場しています。
 「ひいらいたひらいた なんお花が 開いたれんげの花がひらいた」
  (童謡)
 のれんげとは、蓮華=レンゲで、はすの花のことを示しています。
 はすの花の開閉の様をよく表したわらべうた(唄)です。

ハスの中にアブ(虻)が来ている。


時間とともに日が高くなり、人の数は増える一方だ。


門のそばには蓮の鉢があって
カメラマンがしきりにシャッターを切っている。

「自動車で行ったら駐車できなくて・・・」
近隣のオジサンは数年前に出かけたときのことを話してくれた。
最終日は7月21日(月・祝)海の日の朝である。




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第六天例祭

2008-07-18 09:38:00 | Weblog
建長寺から少し北鎌倉よりに急な石段が見える。
普段は固く門が閉じられている。

2年前に何者かが宝物を盗んでいったという。
悲しい出来事に胸がふさがる思いをしたこともある。

折しも北鎌倉・山ノ内地区のお祭りが行われる。
石段の麓は神輿の行在所でもある。


110段の石段を昇りつめると建物がある。


石段は110段


夏の盛りの祭典で蒸し暑い。
汗を拭う建長寺の僧侶の姿がある。
冷えたタオルが用意されたが
「お経を上げた後にお願いします」


般若心経の読経から始まった。


第六天の小さな広場からの眺望
遥か大船観音が見える。


仏事が終わると般若湯と赤飯がふるまわれる。


急な石段を下山する僧侶たち


続いて神事である。
氏子も準備を手伝う微笑ましい光景だ。


八雲神社の神官による祝詞奏上。


鈴お扇子の神楽が奉納される。


左右と正面(外)の参列者がお祓いを受ける。


米粒を撒いて豊穣を祈る。

最後に「かわらけに酒」と赤飯がふるまわれて終了する。

石段下の「徳高哉」(徳は高きかな)の石碑
建長寺の名前が見える。


庚申塔もあり古い年代からのものだと分かる。


ふりかえると再び鎮まる石段があった。
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鎌倉時代の繁華街を歩く

2008-07-17 11:23:00 | Weblog
■田楽辻子の道入口
鎌倉駅から「鎌倉宮」行きまたは「太刀洗」行きのバスに乗る。
最低料金(170円)の岐れ路(わかれみち)で下車。
少し進んで大御堂橋(おおみどうばし)の信号を右折する。

滑川(なめりがわ)にかかる橋の名前が「大御堂橋」
その昔、源頼朝が父・義朝の菩提を弔った御堂があった。

橋のたもとに「田楽辻子(でんがくずし)の道」の標識がある。
このあたりには田楽師が多く住んでいたという。
芸能人が住んでいた、まさに繁華街である。

■文覚上人屋敷跡
歴史碑には「文覚上人屋敷跡」とある。
文覚(もんがく)はもと北面の武士、(遠藤盛遠1139~1203)
誤って横恋慕した袈裟御前を殺害したことから
出家した真言宗の僧侶である。

京都・高尾の神護寺を修復するために
後白河法王に強訴したため伊豆に流される。
そこで配流の身だった源頼朝に
平家打倒の挙兵を促したことから歴史上の人物となった。

材木座「補陀洛寺」の開山と伝えられ
腕組みをした文覚上人裸形像が有名だ。

頼朝の頼みで江ノ島に弁財天を勧請するために
長期間参籠した話が残されている。
桁違いの生き方をしたために
稀代のペテン師などと言われることもある。
鎌倉時代の人物としてもなかなか興味深い男ではある。
心ない人たちの自転車置き場になっているのが残念ではある。

■勝長寿院

見る影もないとはこのことを言うのだろうか。
源頼朝が建立した三大寺院の一つが「勝長寿院」である。
他は「鶴岡八幡宮寺(当時は寺であった)」と
「永福寺(ようふくじ)」である。

谷の奥まで寺院が犇めいていたのだろうが想像することも難しい。
一度谷の奥まで探検したが
家また家で山へ登ることはできなかった。

■蛇行する滑川
当時の繁華街は滑川(なめりがわ)沿いに栄えていたのだろう。
今でも川のあちこちに橋がかかり寺院や屋敷跡がある。

この辺では大きく蛇行して杉本寺の周囲を迂回している。

■釈迦堂口切通

途中で右に曲がって釈迦堂口に向かう。
釈迦堂という堂宇があった場所だという。
国際興業の小佐野賢治が別荘にしていたという。
今では小口に分割されて住宅地になっているらしい。
なんとかして守らなければならない
鎌倉の歴史上の場所の一つである。

■上杉朝宗
上杉朝宗(ともむね)および氏憲(うじのり)の住宅跡だという。
上杉朝宗は「犬掛の管領」と呼ばれ足利公方の補佐役の一人だった。
「禅秀の乱」を起こした上杉氏憲(禅秀)の父である。

この交差点を左に行けば「杉本寺」
右の林を登って行くと「衣張山」で「平成巡礼道」の立て札がある。

■報国寺の庭

田楽辻子の道も竹の庭「報国寺」が終点である。
「竹の秋」という言葉があるが
竹の庭は枯れ笹に一面が覆われている。

■報国寺の慰霊塔

竹の庭入口の目立たない場所に供養塔がある。
由比ヶ浜あたりを発掘した際に出てきた様々な遺骨や
慰霊碑などを先代住職が集めて供養したものだ。
上杉禅秀などの卒塔婆が立っている。

■巡礼道入口

報国寺の脇の坂を登って行く。
途中に「巡礼古道」入口の札が目立たない場所にある。
ここから衣張山に登るのが世紀の道らしい。

■旧華頂宮

さらに奥まった場所に突然洋館が出現する。
鎌倉市が所有する「旧華頂宮邸」である。

華頂宮邸は4月の「鎌倉まつり」や文化の日などに開放される。
暑い日のウォーキングにはさわやかな風が何よりのご馳走であった。










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学芸大学へ

2008-07-16 10:51:00 | Weblog
■武蔵小金井駅
成人期のダウン症対応セミナーの打ち合わせのため
学芸大学の先生を訪ねることになった。

JR中央線の武蔵小金井駅は30年前によく下車したものだ。
下り電車を降りると高架ホームである。
昔の面影の残っている南口改札を出てみる。
ロータリーの雰囲気もあまり変わってはいない。


■開かずの踏切

開かずの踏切として有名で
急ぐ余りに遮断機をくぐった人が亡くなった。
そのこともあって大々的な工事が行われているようだ。
南北を遮断していた踏切がなくなれば町の様子も一変するだろう。

■学芸大学

北口からバスに乗って10分足らずで学芸大学に到着する。
ただし、東門・正門などを間違えるとえらいことになるようだ。
武蔵野の面影を残す素晴らしいキャンパスだ。

■研究棟

お約束の時間少し前に「教育実践研究支援センター」前に立つ。
久しぶりに味わう緊張感が心地よい。

「従兄弟にあたる春口先生からよろしくとのことでした」
冒頭で父の弟の長男・春口明朗さんの名前が出たのにはびっくりした。
最も仲の良い1歳違いの従弟で障害者の教育に一生を捧げている。
お目にかかった先生は後輩にあたるようでお付き合いがあるようだ。

縁は異なもの味なものである。
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ヌルデ

2008-07-15 13:32:00 | Weblog
■ヌルデ

私の乗るバス停のそばに「ヌルデ」の木がある。
秋に真っ先に黄葉するのがこの木である。
複葉と呼ばれる枝についた羽のような葉が特徴でもある。

フリー百科事典(Wikipedia)によると次のような説明がある。 
 花は円錐花序で7−8月に開花する。
 花は数mm程度で5つの花弁がある。
 雌花には3つに枝分かれした雌しべがある。
 雄花には5本の雄しべがあり、花弁は反り返っている。
 秋には直径5-8mmほどの扁平な球形をした果実をつける。
 果実の表面にあらわれる白い粉のようなものは
 リンゴ酸カルシウムの結晶であり、
 熟した果実を口に含むと塩味が感じられる。

■ヌルデの花と複葉

全体の写真からではよくわからない。
そこで近づいて映してみた。
葉の付け根の幹の部分に葉がついている。
この葉を複葉と呼ぶ。
数年前に植物の園田先生に教えていただいた。


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三門梶原施餓鬼会

2008-07-15 09:35:00 | Weblog
梶原施餓鬼に出かけたもう一つの効用は
朝の鎌倉を楽しむことができたこと。
朝の円覚寺は午前8時開門。
まだ静まりかえっている。


観光客はまだ動いていない時間。
登校のために急いでいる人たちで片側は一杯になる。

建長寺の隣が鎌倉学園高校
男子校でもあり制服の白が眩しい。

踏切のあとの信号はそう多くない。
亀谷坂切通し入口を通過して、
建長寺入口に到着する。

鎌倉学園高校入口でもある。
土産物屋さんはまだ開いていない。

建長寺山門を入る。


建長寺仏殿は静まり返っていた。
ビャクシンの濃い緑が夏を告げている。


■建長寺梶原施餓鬼
7月15日午前8時・建長寺
これだけの情報でどれだけの人が集まるのだろう。


鎌倉幕府は、源頼朝の独裁政権であった。
頼朝の死後はその政権を子の頼家が継いだが、
頼家は妻の実家である比企氏を頼ったため、
比企氏に政治の実権を握られることをおそれた北条時政は、
将軍独裁から宿老13人による合議制による政治を提案する。
景時もその中の一人であった。
この辺りから北条氏の有力御家人排除の企みが始まる。
景時は、「結城朝光が謀反を企てている」
との讒言をしたことで、鎌倉追放となる。
景時は駿河で最期を遂げる。
北条時政としては、
二代将軍頼家よりの景時をどうしても排除したかった。


既に建長寺の入口は開いている。
午前7時50分
三門に近づくと多くの人がたむろしている。
多くは鎌倉シルバーボランティアガイド協会のガイドさん、
それにカメラの原田寛先生とお弟子さんたちである。
三門の中では僧侶たちが準備に余念がない。

■施餓鬼の準備

僧侶の姿もさまざまだが
建長寺の主催する法要で見かける顔がある。


施餓鬼棚というのだろうか、
万霊のためにという位牌が中央にあり
果物や野菜などが供えられている。


厳かに梵鐘が鳴らされる。
円覚寺、常楽寺と並び「鎌倉の3名鐘」のひとつ。
この鐘の音で建長寺貫主を呼んでいるようだ。

■建長寺貫主、修行道場を出る
普段は入ることのできない
建長寺の修行僧たちの場所「西来庵」

そこから建長寺の管長(吉田正道猊下)を
お迎えする声の代わりのようだ。


秘書役の僧を先導させて管長がお出ましになる。
なお先ほどの写真を撮影していた人が原田寛先生だ。

■梶原施餓鬼
いよいよ梶原施餓鬼の始まりだ。

なみからたんのとらやあやあ
建長寺の儀式が始まった。
独特の節回しで読経が続く。


法堂側から見た読経の風景だ。


声たからかに読経する若い僧。
それに従う30人余の僧。
そして鉦をたたく僧。
施餓鬼会も盛り上がっていく。


甘露水と呼ばれる(?)桶の水を葉っぱで外にかけ
手を合わせる管主の姿を見て
梶原景時の霊も慰められるのだろう。


続けて僧侶が二人ずつ組みになって水をかける。


僧侶たちが三門の中を巡る儀式が始まる。


経典を読む顔も真剣である。


墨染の修行僧の姿も交じる。


足元を見ていただきたい。
管主は赤い沓、僧侶は青い沓、
そして修行僧は黒い鼻緒の草履である。






一連の儀式が終わると管主は修行道場へ戻る。


檀家の人たち10数人はその間静かに待っている。

■建長寺の施餓鬼

管主が帰られた跡は童歌のような経文が聞こえる。
鐘の音が和して儀式が終わろうとしている。

お参りをさせて頂き、桶の中を拝見した。
何となくご利益のありそうな雰囲気である。


さらに本堂へ進む。
大きな鉢の蓮が見事に咲いている。

中国北京植物園から来た「美中紅」という名前の蓮。
名前に似ずひそやかなイメージの花びらである。


■浄光明寺の門
建長寺の行事を終えて鎌倉へ向かう。
亀谷坂(かめがやつざか)を経由して浄光明寺へ。
いつもは簡素な門が心なし華やかである。


浄光明寺は普段開いていることがない本堂が開いていた。
施餓鬼棚のように設えられている。
笹などが美しく飾ってあり好感が持てる。

「お施餓鬼」ですかと職人さんに尋ねる。
午後1時ころから始まるらしい。


脇の間にある仏像もかすかに拝見することができた。

■鎌倉へ
扇が谷に入って「今小路」を歩く。
最初に見かけるのが「鎌倉彫復興碑」である。

鎌倉彫の中心は三橋家と後藤家。
後藤家の敷地内にある石碑には両家の名が残されていた。

窟不動と呼ばれる。
不動茶屋という甘味処がある。

鎌倉幕府の時代より古い歴史があるという。

真っ直ぐ進めば「小町通り」の突き当たりである。
右手に長く続く板塀は「川喜多邸」
映画人の旧宅が鎌倉市に寄贈されたものだ。









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扇ケ谷への道 その二

2008-07-12 10:52:00 | Weblog
■阿佛尼

阿佛尼は「十六夜日記」の作家としてつとに有名である。
藤原定家の子藤原為家の室で、冷泉為相の母であるが、
為家のために異母兄弟との相続争いを訴えた人として有名である。
鎌倉幕府までの紀行文「十六夜日記」が歴史に残っている。
この地が母・阿佛尼の墓とするならば、
小高い場所にある子・冷泉為相(ためすけ)の墓を望む位置である。

■隠里稲荷

阿佛の墓の隣は「隠里稲荷」である。
源頼朝の夢枕に立った白髭の老人が稲荷の化身だったという。

■浄光明寺の裏山

JR横須賀線の線路を挟んだ向かいの山なみ。
浄光明寺の奥山につながっている。
そこには冷泉為相が祀られている。
水戸黄門こと徳川光圀が墓石を寄進している。

■海蔵寺への道

海蔵寺への緩やかな登り坂である。
左手を行くと化粧坂(けはいざか)経由で源氏山につながっている。

■海蔵寺山門

谷戸の奥に海蔵寺(かいぞうじ)がある。
「花の寺」として四季折々尋ねる人が多い。
途中の住宅の緑が美しさに協力する姿も佳い。

■海蔵寺庭園

日傘の奥が海蔵寺の庭園である。
ここでパンフレット代金を支払って
「十六井」を見るのがコースになる。
今日はパスさせてもらった。

■海蔵寺本堂

海蔵寺本堂の額の文字はなかなか雄渾なものだ。
奥の庭には池があり茶室のような建物もある。
この寺を極めるには無窮の時間が必要なようだ。

■海蔵寺のノウゼンカズラ

ノウゼンカズラが美しい。
「花の寺」の面目躍如というところ。

■海蔵寺の桔梗

さらに海蔵寺の桔梗の美しさも筆舌に尽くしがたい。

■海蔵寺の鐘楼

海蔵寺の鐘楼はなかなか絵になる。
日傘を点景にして静かに心のひだを刻んでいる。

■海蔵寺井戸

山門脇の小さな水たまりは鎌倉十井の一つ
「底脱の井」(そこぬけ)である。
里の少女の桶の底が抜けて悟りを開いたという話。
なかなか洒脱なエピソードがついている。

■岩船地蔵

源頼朝・政子夫妻の長女「大姫」を祀る。
20年ほど前までは村の盆踊り屋台のような雰囲気だった。
今では六角形の瀟洒なお堂が建ち
ときにお参りして行く人も多いと聞く。
海蔵寺の地蔵堂になっている。

■扇が谷のやぐら
扇ガ谷地域にもやぐらが多くある。

相馬次郎師常の墓と書かれている。
「八坂神社」の神輿はここに置かれていたらしい。


相馬次郎師常
鎌倉町青年団の歴史碑。

■扇川のヒオウギ

扇川にホタルをという願いを込めた運動をしているようだ。
川の周囲には植物が多い。
ヒオウギが美しく咲いている。

■亀谷坂分岐

海蔵寺までの道を戻る。
横須賀線を潜るこの分岐から左へ行くと地蔵堂がある。
さらに左は「亀谷坂」、右「浄光明寺」である。
海蔵寺へ行かなかった人力車もこの鉄橋を潜る。

■扇が谷の路地

鎌倉の路地は秘密めいた場所が多くて楽しい。
亀谷坂から写真の場所に到着するといつも迷う。
左に行けば「浄光明寺」
踏切を渡れば「英勝寺」
真っすぐ歩けば最初にアケビが実る姿が見られる。

■扇が谷上杉

路地の奥に鎌倉町青年団の歴史碑がある。
「扇谷上杉管領屋敷跡」とある。
大船駅近くの長尾台は、
上杉謙信(長尾景虎)の末裔たちが栄えた場所なのだろう。

■扇が谷の路地2

さらに進む。
今度は左が壽福寺踏切
直進すれば今小路で
鶴岡八幡宮や鏑木清方記念館に続く道だ。
小さな流れは季節に応じた灌木が目を楽しませる。

■八坂神社の高札

再び八坂神社に戻る。
お祭りの神輿が出る様子はない。
六角形の神輿を見るという課題は来年に持ち越すことにする。

■踏切を渡れば別世界

鎌倉駅西口に向かう道路の脇をすり抜ける。
「今小路踏切」と書かれた無人の遮断機つき踏切を渡る。

今小路は鎌倉時代からあったという古道。
踏切を渡れば別世界だが、
余韻に浸りながら「八坂神社」の祭礼探しの旅を終わる。

□参考
■八坂神社(扇ガ谷)の高札には次のように書かれている。
(筆者注:原文は古文調であるが現代仮名遣いに改めた)
 建久3年 相馬次郎師常 
 己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。
 その後 現在の地に奉遷する。
 世に相馬天王と称するはこの故である。
 神幸式は5日12日の両日に行われていたが
 今では12日のみとなった。
 中世 御幸祭の神輿荒ぶるとて
 師常館の岩窟に納め新たに調達したと伝えられる。
 独特の六角神輿は宗社である
 京都祇園 八坂神社の形を伝承したものである。

 享和元年、慶応元年に社殿の改築が行われた。
 明治6年 村社に列格される。

 さらに「元神輿之碑」は大正12年の関東大震災で
 壊滅した元神輿を昭和8年焚いて
 その浄灰をここに納めた記念の碑である。















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