梶原施餓鬼に出かけたもう一つの効用は
朝の鎌倉を楽しむことができたこと。
朝の円覚寺は午前8時開門。
まだ静まりかえっている。
観光客はまだ動いていない時間。
登校のために急いでいる人たちで片側は一杯になる。
建長寺の隣が鎌倉学園高校
男子校でもあり制服の白が眩しい。
踏切のあとの信号はそう多くない。
亀谷坂切通し入口を通過して、
建長寺入口に到着する。
鎌倉学園高校入口でもある。
土産物屋さんはまだ開いていない。
建長寺山門を入る。
建長寺仏殿は静まり返っていた。
ビャクシンの濃い緑が夏を告げている。
■建長寺梶原施餓鬼
7月15日午前8時・建長寺
これだけの情報でどれだけの人が集まるのだろう。
鎌倉幕府は、源頼朝の独裁政権であった。
頼朝の死後はその政権を子の頼家が継いだが、
頼家は妻の実家である比企氏を頼ったため、
比企氏に政治の実権を握られることをおそれた北条時政は、
将軍独裁から宿老13人による合議制による政治を提案する。
景時もその中の一人であった。
この辺りから北条氏の有力御家人排除の企みが始まる。
景時は、「結城朝光が謀反を企てている」
との讒言をしたことで、鎌倉追放となる。
景時は駿河で最期を遂げる。
北条時政としては、
二代将軍頼家よりの景時をどうしても排除したかった。
既に建長寺の入口は開いている。
午前7時50分
三門に近づくと多くの人がたむろしている。
多くは鎌倉シルバーボランティアガイド協会のガイドさん、
それにカメラの原田寛先生とお弟子さんたちである。
三門の中では僧侶たちが準備に余念がない。
■施餓鬼の準備
僧侶の姿もさまざまだが
建長寺の主催する法要で見かける顔がある。
施餓鬼棚というのだろうか、
万霊のためにという位牌が中央にあり
果物や野菜などが供えられている。
厳かに梵鐘が鳴らされる。
円覚寺、常楽寺と並び「鎌倉の3名鐘」のひとつ。
この鐘の音で建長寺貫主を呼んでいるようだ。
■建長寺貫主、修行道場を出る
普段は入ることのできない
建長寺の修行僧たちの場所「西来庵」
そこから建長寺の管長(吉田正道猊下)を
お迎えする声の代わりのようだ。
秘書役の僧を先導させて管長がお出ましになる。
なお先ほどの写真を撮影していた人が原田寛先生だ。
■梶原施餓鬼
いよいよ梶原施餓鬼の始まりだ。
なみからたんのとらやあやあ
建長寺の儀式が始まった。
独特の節回しで読経が続く。
法堂側から見た読経の風景だ。
声たからかに読経する若い僧。
それに従う30人余の僧。
そして鉦をたたく僧。
施餓鬼会も盛り上がっていく。
甘露水と呼ばれる(?)桶の水を葉っぱで外にかけ
手を合わせる管主の姿を見て
梶原景時の霊も慰められるのだろう。
続けて僧侶が二人ずつ組みになって水をかける。
僧侶たちが三門の中を巡る儀式が始まる。
経典を読む顔も真剣である。
墨染の修行僧の姿も交じる。
足元を見ていただきたい。
管主は赤い沓、僧侶は青い沓、
そして修行僧は黒い鼻緒の草履である。
一連の儀式が終わると管主は修行道場へ戻る。
檀家の人たち10数人はその間静かに待っている。
■建長寺の施餓鬼
管主が帰られた跡は童歌のような経文が聞こえる。
鐘の音が和して儀式が終わろうとしている。
お参りをさせて頂き、桶の中を拝見した。
何となくご利益のありそうな雰囲気である。
さらに本堂へ進む。
大きな鉢の蓮が見事に咲いている。
中国北京植物園から来た「美中紅」という名前の蓮。
名前に似ずひそやかなイメージの花びらである。
■浄光明寺の門
建長寺の行事を終えて鎌倉へ向かう。
亀谷坂(かめがやつざか)を経由して浄光明寺へ。
いつもは簡素な門が心なし華やかである。
浄光明寺は普段開いていることがない本堂が開いていた。
施餓鬼棚のように設えられている。
笹などが美しく飾ってあり好感が持てる。
「お施餓鬼」ですかと職人さんに尋ねる。
午後1時ころから始まるらしい。
脇の間にある仏像もかすかに拝見することができた。
■鎌倉へ
扇が谷に入って「今小路」を歩く。
最初に見かけるのが「鎌倉彫復興碑」である。
鎌倉彫の中心は三橋家と後藤家。
後藤家の敷地内にある石碑には両家の名が残されていた。
窟不動と呼ばれる。
不動茶屋という甘味処がある。
鎌倉幕府の時代より古い歴史があるという。
真っ直ぐ進めば「小町通り」の突き当たりである。
右手に長く続く板塀は「川喜多邸」
映画人の旧宅が鎌倉市に寄贈されたものだ。
朝の鎌倉を楽しむことができたこと。
朝の円覚寺は午前8時開門。
まだ静まりかえっている。
観光客はまだ動いていない時間。
登校のために急いでいる人たちで片側は一杯になる。
建長寺の隣が鎌倉学園高校
男子校でもあり制服の白が眩しい。
踏切のあとの信号はそう多くない。
亀谷坂切通し入口を通過して、
建長寺入口に到着する。
鎌倉学園高校入口でもある。
土産物屋さんはまだ開いていない。
建長寺山門を入る。
建長寺仏殿は静まり返っていた。
ビャクシンの濃い緑が夏を告げている。
■建長寺梶原施餓鬼
7月15日午前8時・建長寺
これだけの情報でどれだけの人が集まるのだろう。
鎌倉幕府は、源頼朝の独裁政権であった。
頼朝の死後はその政権を子の頼家が継いだが、
頼家は妻の実家である比企氏を頼ったため、
比企氏に政治の実権を握られることをおそれた北条時政は、
将軍独裁から宿老13人による合議制による政治を提案する。
景時もその中の一人であった。
この辺りから北条氏の有力御家人排除の企みが始まる。
景時は、「結城朝光が謀反を企てている」
との讒言をしたことで、鎌倉追放となる。
景時は駿河で最期を遂げる。
北条時政としては、
二代将軍頼家よりの景時をどうしても排除したかった。
既に建長寺の入口は開いている。
午前7時50分
三門に近づくと多くの人がたむろしている。
多くは鎌倉シルバーボランティアガイド協会のガイドさん、
それにカメラの原田寛先生とお弟子さんたちである。
三門の中では僧侶たちが準備に余念がない。
■施餓鬼の準備
僧侶の姿もさまざまだが
建長寺の主催する法要で見かける顔がある。
施餓鬼棚というのだろうか、
万霊のためにという位牌が中央にあり
果物や野菜などが供えられている。
厳かに梵鐘が鳴らされる。
円覚寺、常楽寺と並び「鎌倉の3名鐘」のひとつ。
この鐘の音で建長寺貫主を呼んでいるようだ。
■建長寺貫主、修行道場を出る
普段は入ることのできない
建長寺の修行僧たちの場所「西来庵」
そこから建長寺の管長(吉田正道猊下)を
お迎えする声の代わりのようだ。
秘書役の僧を先導させて管長がお出ましになる。
なお先ほどの写真を撮影していた人が原田寛先生だ。
■梶原施餓鬼
いよいよ梶原施餓鬼の始まりだ。
なみからたんのとらやあやあ
建長寺の儀式が始まった。
独特の節回しで読経が続く。
法堂側から見た読経の風景だ。
声たからかに読経する若い僧。
それに従う30人余の僧。
そして鉦をたたく僧。
施餓鬼会も盛り上がっていく。
甘露水と呼ばれる(?)桶の水を葉っぱで外にかけ
手を合わせる管主の姿を見て
梶原景時の霊も慰められるのだろう。
続けて僧侶が二人ずつ組みになって水をかける。
僧侶たちが三門の中を巡る儀式が始まる。
経典を読む顔も真剣である。
墨染の修行僧の姿も交じる。
足元を見ていただきたい。
管主は赤い沓、僧侶は青い沓、
そして修行僧は黒い鼻緒の草履である。
一連の儀式が終わると管主は修行道場へ戻る。
檀家の人たち10数人はその間静かに待っている。
■建長寺の施餓鬼
管主が帰られた跡は童歌のような経文が聞こえる。
鐘の音が和して儀式が終わろうとしている。
お参りをさせて頂き、桶の中を拝見した。
何となくご利益のありそうな雰囲気である。
さらに本堂へ進む。
大きな鉢の蓮が見事に咲いている。
中国北京植物園から来た「美中紅」という名前の蓮。
名前に似ずひそやかなイメージの花びらである。
■浄光明寺の門
建長寺の行事を終えて鎌倉へ向かう。
亀谷坂(かめがやつざか)を経由して浄光明寺へ。
いつもは簡素な門が心なし華やかである。
浄光明寺は普段開いていることがない本堂が開いていた。
施餓鬼棚のように設えられている。
笹などが美しく飾ってあり好感が持てる。
「お施餓鬼」ですかと職人さんに尋ねる。
午後1時ころから始まるらしい。
脇の間にある仏像もかすかに拝見することができた。
■鎌倉へ
扇が谷に入って「今小路」を歩く。
最初に見かけるのが「鎌倉彫復興碑」である。
鎌倉彫の中心は三橋家と後藤家。
後藤家の敷地内にある石碑には両家の名が残されていた。
窟不動と呼ばれる。
不動茶屋という甘味処がある。
鎌倉幕府の時代より古い歴史があるという。
真っ直ぐ進めば「小町通り」の突き当たりである。
右手に長く続く板塀は「川喜多邸」
映画人の旧宅が鎌倉市に寄贈されたものだ。