「鎌倉個道」

鎌倉の歴史、草花、食物

鎌倉時代の繁華街を歩く

2008-07-17 11:23:00 | Weblog
■田楽辻子の道入口
鎌倉駅から「鎌倉宮」行きまたは「太刀洗」行きのバスに乗る。
最低料金(170円)の岐れ路(わかれみち)で下車。
少し進んで大御堂橋(おおみどうばし)の信号を右折する。

滑川(なめりがわ)にかかる橋の名前が「大御堂橋」
その昔、源頼朝が父・義朝の菩提を弔った御堂があった。

橋のたもとに「田楽辻子(でんがくずし)の道」の標識がある。
このあたりには田楽師が多く住んでいたという。
芸能人が住んでいた、まさに繁華街である。

■文覚上人屋敷跡
歴史碑には「文覚上人屋敷跡」とある。
文覚(もんがく)はもと北面の武士、(遠藤盛遠1139~1203)
誤って横恋慕した袈裟御前を殺害したことから
出家した真言宗の僧侶である。

京都・高尾の神護寺を修復するために
後白河法王に強訴したため伊豆に流される。
そこで配流の身だった源頼朝に
平家打倒の挙兵を促したことから歴史上の人物となった。

材木座「補陀洛寺」の開山と伝えられ
腕組みをした文覚上人裸形像が有名だ。

頼朝の頼みで江ノ島に弁財天を勧請するために
長期間参籠した話が残されている。
桁違いの生き方をしたために
稀代のペテン師などと言われることもある。
鎌倉時代の人物としてもなかなか興味深い男ではある。
心ない人たちの自転車置き場になっているのが残念ではある。

■勝長寿院

見る影もないとはこのことを言うのだろうか。
源頼朝が建立した三大寺院の一つが「勝長寿院」である。
他は「鶴岡八幡宮寺(当時は寺であった)」と
「永福寺(ようふくじ)」である。

谷の奥まで寺院が犇めいていたのだろうが想像することも難しい。
一度谷の奥まで探検したが
家また家で山へ登ることはできなかった。

■蛇行する滑川
当時の繁華街は滑川(なめりがわ)沿いに栄えていたのだろう。
今でも川のあちこちに橋がかかり寺院や屋敷跡がある。

この辺では大きく蛇行して杉本寺の周囲を迂回している。

■釈迦堂口切通

途中で右に曲がって釈迦堂口に向かう。
釈迦堂という堂宇があった場所だという。
国際興業の小佐野賢治が別荘にしていたという。
今では小口に分割されて住宅地になっているらしい。
なんとかして守らなければならない
鎌倉の歴史上の場所の一つである。

■上杉朝宗
上杉朝宗(ともむね)および氏憲(うじのり)の住宅跡だという。
上杉朝宗は「犬掛の管領」と呼ばれ足利公方の補佐役の一人だった。
「禅秀の乱」を起こした上杉氏憲(禅秀)の父である。

この交差点を左に行けば「杉本寺」
右の林を登って行くと「衣張山」で「平成巡礼道」の立て札がある。

■報国寺の庭

田楽辻子の道も竹の庭「報国寺」が終点である。
「竹の秋」という言葉があるが
竹の庭は枯れ笹に一面が覆われている。

■報国寺の慰霊塔

竹の庭入口の目立たない場所に供養塔がある。
由比ヶ浜あたりを発掘した際に出てきた様々な遺骨や
慰霊碑などを先代住職が集めて供養したものだ。
上杉禅秀などの卒塔婆が立っている。

■巡礼道入口

報国寺の脇の坂を登って行く。
途中に「巡礼古道」入口の札が目立たない場所にある。
ここから衣張山に登るのが世紀の道らしい。

■旧華頂宮

さらに奥まった場所に突然洋館が出現する。
鎌倉市が所有する「旧華頂宮邸」である。

華頂宮邸は4月の「鎌倉まつり」や文化の日などに開放される。
暑い日のウォーキングにはさわやかな風が何よりのご馳走であった。











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