数年前から何度となくガケ崩れを起こしている場所をついに改良工事していただけることになりました。それに伴い、その場所に鎮座されているお地蔵さんにしばしご移動願うためにお性根抜きをしていただきました。
地元常照皇寺の老師様にお願いして「脱魂」の法要。洗米、塩、水をお供えしてお経をあげてもらう簡単な法要ですが、「これで大丈夫」と安心させていただきました。
こういったことが本当に必要なのか、意味はあるのか、という議論はあるようですが、多くの人に目に見える形で納得していただける方法ということを考えたらやはりこれが一番いいのでは、という結論に至りました。今回のように公的な事業の場合は尚更。何よりもこれによって安心させていただけるということが最も大きな意味なのでは。
信心というものは心の持ちようだとは思いますが、目に見える形(形式)というものは大事なような気がします。時には「形」が信心に結びつく(あるいは呼び起こす)こともあると思います。そう考えると人の心とは案外弱いものなのかもしれません。
地元常照皇寺の老師様にお願いして「脱魂」の法要。洗米、塩、水をお供えしてお経をあげてもらう簡単な法要ですが、「これで大丈夫」と安心させていただきました。
こういったことが本当に必要なのか、意味はあるのか、という議論はあるようですが、多くの人に目に見える形で納得していただける方法ということを考えたらやはりこれが一番いいのでは、という結論に至りました。今回のように公的な事業の場合は尚更。何よりもこれによって安心させていただけるということが最も大きな意味なのでは。
信心というものは心の持ちようだとは思いますが、目に見える形(形式)というものは大事なような気がします。時には「形」が信心に結びつく(あるいは呼び起こす)こともあると思います。そう考えると人の心とは案外弱いものなのかもしれません。