ファミリーレストランのようですが、平泉の、ある銀行です。
町並みをやがて登録されるであろう世界文化遺産に合わせようと努力しています。
26日に平泉に行ってきました。
平泉の歴史的遺産と現代の町は調和していませんでした。
観光バスで続々と訪れる観光客も、どこか外から来て、中尊寺の金色堂だけ見て、またどこか外へ行ってしまうという感じです。
平泉の町を味わうという形になっていません。
12世紀の平泉は藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の町でしかなかったからではないでしょうか。
当時の平泉から、藤原氏が政治を行なった平泉館、住んだと考えられる加羅御所、毛越寺(もうつうじ)、観自在王院、無量光院など平地にある壮大な寺院群を引くとたいした平地が残りません。
したがって人々の町として栄えた気配がありません。
だから藤原氏の滅亡と共に平泉は消えたのでしょう。
藤原氏の寺院群を維持する人がいなくなってしまったと思います。
そのため寺院群は消え、水田となり、平泉はごく普通の農村になったのでしょう。
毛越寺も観自在王院も、浄土庭園と呼ばれる大きな池のある庭園が復元されていますが、町の雰囲気と調和していません。
人々が毛越寺や観自在王院と共に生きて来なかったからだと思います。
宇治の平等院を模したと言われる無量光院は現在水田の中から発掘調査中です。
なお中尊寺は、9世紀に創建された天台宗の山寺です。
昔からこの地方の人々の信仰を集めていたのでしょう。
藤原氏が滅びても残りました。
中尊寺は3000点以上の国宝、重要文化財を今日に伝えることができました。
藤原氏がつくった金色堂も残りました。
面白いことに中尊寺に弁慶堂がありますが、義経堂はありません。
源義経はこの地方の人々には人気がなかったようです。
義経堂は、彼が住んでいたという高館という小山の上にありますが、弁慶堂に比較すると非常に貧弱なお堂です。
17世紀高館を訪れた松尾芭蕉は「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠みました。
一関市が誕生した時、平泉町は一関市に吸収されることを嫌い、平泉の名を惜しみました。
平泉はユネスコ世界文化遺産として登録されるでしょう。
しかしこれからさらに整備されるであろう歴史的遺産とどう調和して生きるかが町の人々の課題と思います。