EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和に改元され4年、気持ちも新たに初詣

2022年01月07日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

1月4日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来た。

今年松山は、年末から気温は低く例年にない寒い令和4年の年明けであった。

私の正月の過ごし方は、毎年駅伝を見て過ごすのが恒例となっており、今年も元旦は、実業団駅伝、2日、3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路も平成28年の様な体調を崩し大崩れする選手も無く無事終了した。

青山学院大の素晴らしい走りで、新記録・2年ぶりの往路・復路優勝で総合優勝を飾った。

今年の箱根駅伝は見ごたえのある場面があった。1区の中央大学の吉居選手区間新記録、それから4区と5区のタスキリレーの演出をした駿河台大学徳本監督、今井選手と永井選手、師弟関係のタスキリレーは涙を誘った。

徳本監督は現役時代、法政大学では、お茶目な選手だったが、いまもその気配は残っている。

来年から楽しみな大学で見守って行きたい。

愛媛県出身の選手はいないのかとTV観戦したいたところ、2人の選手がいた。

さて、東京箱根間往復大学駅伝も終わり、昨年のお礼を心にして令和4年の初詣に出掛けた。

多くの氏子達が家族ずれで氏神様である日尾八幡神社に来ていた。

昨年は全国各地で新型コロナが蔓延し、未だ平常な生活が出来てないが、今年は一日も早く元の生活に戻る事を祈願し、災害のない平穏な年であることをお願いするとともに、今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをした。

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、

松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する氏神である。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社の神官三輪田清敏の長男で、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があり、此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうだ。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山ある。

明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」が居られたが現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうだ。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)である。

日尾八幡神社の山門。

山門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。

温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争で戦死された方々の慰霊碑である。

山門に飾られた「注連縄・門松・そして国旗(日章旗)である。

近年各家庭では国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなったのか国旗を掲揚する家庭が激変した。・・何故であろうか?

山門をくぐり振り返ると赤い大鳥居と真っ直ぐにのびた参道が見える。

さーこれから、158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをする。

158段の長い石段、途中小休止。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社の拝殿がある。

日尾八幡神社の拝殿。

氏子達が初詣をする日尾八幡神社神の拝殿内部。

祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。

おみくじを頂き、家族で確認して、おみくじを結んでいた。

拝殿左側に設置された納札所。

久しぶりに、日尾八幡神社山頂展望台に登ってみた。

登山道は、綺麗に掃き清められていた。

標高107,4mにある、日尾八幡神社山頂展望台。

標高107,4mにある日尾八幡神社山頂にある展望台デッキ。

展望台から見た登山道で、右側が日尾八幡神社からの登山道、左側が四国88ヶ所第49番札所の浄土寺に行く遍路道。

日尾八幡神社の展望台から見た松山城。

日尾八幡神社の展望台から見た「伊豫三山」の眺望。

伊豫三山:星岡山・天山・土亀山」

展望台登山道から見た日尾八幡神社の本殿と拝殿。

158段の長い石段最上部から見た下方の石段。

知られてない社が日尾八幡にありそれは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる戦いがあった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率いて夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな終に敵弾に中り戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。

この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用

この戦いで、敗退していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際北の郭を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北の郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

役目を終えた狛犬が祀られていた。

狛犬は、神様のお使いと邪気を祓うものとして扱われている。

お寺には、仁王様(金剛力士)が、山門や建物の入口に悪魔が入って来ないように守護しており、お城の天守には、鯱があげられている。

狛犬も、金剛力士も、鯱も、口を開けているのが「阿形」で、口を閉じているのが「吽形」である。置き方は神社・寺院・天守によって異なる。

なお天守の鯱は、織田信長が安土城を築城した時に「魔除け」と火災になると口から水を吐き出し、消火してくれるという伝説と装飾、屋根の上に乗せる、鬼瓦と同様に守り神として大切にされてきたのが始まり。

また個人の家には、守り神として「鍾馗さん」をあげて守護している。(京都に多くある)

役目を果たした狛犬は、山門左後方に祀られていた。

狛犬は、神社にお祭りされている神様のお使いで、参道の両脇に一対で置かれ、邪気を祓う意味があるそうです。

画像の狛犬は、長期間日尾八幡神社の役目を果たした狛犬である。かなり老朽化が進んでいる。

向かって左、口を開けているのが「阿形」で、向かって右、口を閉じているのが「吽形」である。

ちょっと箱根駅伝に触れてみよう!!

駿河台大学、4区の今井選手がリレーする永井選手は、自身が中学校の教員をしていた時、直接指導した教え子で、異例の師弟リレーとなった。

「人生をかけて、中学教師をしていた今井選手(31歳)は新しい学問を学ぶため休職して駿河台大学3年生として編入入学した。心理学を勉強していた時、徳本監督から声を掛けられた。箱根駅伝に出てみませんかと!!

恩師からタスキを受け取り5区箱根の山登りに向かう「永井君たのむよ、ガンバレと声をかけてもらった。ハイ」といった。

その後、駿河台大学タスキは途切れることなく繋がり大手町にゴールした。

分かりましたとタスキを受け取る教え子、監督車から見守った徳本監督は今井選手に「2年間ありがとう。俺に謝って来たら、ぶっ飛ばすからの声が飛んできた。」

今井選手は、この言葉を聞き号泣した。

4月から再び中学校の教師として教壇に復帰するそうです。

昨今、教師の世界いろんな不祥事が起こっている中、再度大学に入学し新しい知識を身に纏い、新たな意気込みで教師として再出発される今井先生にアッパレである。そして徳本監督の粋な計らいにも、「大アッパレである。」

令和4年の「初春」から心温まるいい場面を見せて頂いた。

最後に「駿河台大学駅伝部」の今後益々のご活躍を祈ります。

初出場の駿河台大学往路箱根にゴール。

1区から9区までタスキは途切れることなく繫ぐことが出来、10区選手が皆の熱い思いが籠められたタスキを大手町のゴールにつなぎ辿り着いた。駿河台大学、来年からは予選会を通過して、そしてシード校の常連校として確保できる歴史を作っていって下さい。

いい箱根駅伝を見させてもらった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする