画像は、
全国で始めて発見された秋山好古揮毫の原稿で、注連石に刻印される「御大典記念」と揮毫者の「陸軍大将 秋山好古謹書」である。
三社神社の先々代の小野義直宮司さんは、石工が刻印をする時原稿を石に貼り付け作業をするから、原稿は残らないが、小野義直宮司は原稿を写し取って作業用の原稿を作り、原稿は、軸物に表装し大切に保管して取り置いていたのである。
これを、現宮司の小野哲也宮司さんが発見し連絡を頂いたのです。
令和2年10月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、揮毫した原稿が保存してあったのは、愛媛県久万高原町の石碑「御大典記念」が初めての事で凄いの一言につきる。
先々代の小野義直宮司さんはよくぞ考え保存されたなと思います。
大切に保存されていた所は、愛媛県上浮穴郡久万高原町中組1845番地にある三社神社で、現宮司の小野 哲也さんの先々代の小野義直宮司さんで、アッパレであります。
なお、
三社神社の石碑「注連石・御大典記念」を発見され連絡いただいたのは、松山市在中で、伊予史談会でご活躍されている「佐伯 健さん」です。
そして、
小野哲也宮司さんに、原稿を3枚複製することについて許可を頂きました。
3枚の所蔵は、秋山兄弟生誕地・新潟市の北方文化博物館・私に頂き、私は軸として表装し床の間に掲げております。
平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し、公開さしました。
原稿をよく見ますと、石工が石に刻印する作業に必要とされる所を鉛筆でなぞった個所があります。
先々代の小野義直宮司さんが保存されていた秋山好古揮毫の「御大典記念」揮毫者の「陸軍大将 秋山好古謹書」の原稿です。
小野哲也宮司さんの許可をえて複製したその一枚です。
平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し公開しました。
秋山好古生誕157年祭式展に舞台に飾り臨席された、中村愛媛県知事・野志松山市長を始め、参加出席者各位に全国で初めて保存されていた秋山好古揮毫の原稿が発見された経緯を報告し披露しました。
秋山好古生誕157年祭式典で祝辞を述べる中村愛媛県知事。
祝辞の中に御大典記念の原稿発見について所見を述べられた。
今は、新型コロナ蔓延防止のため愛媛県民を守るため日夜努力されております。
秋山好古生誕157年祭式典後は、画像のように秋山兄弟武道館に掲示しており自由に閲覧出来ますので御覧下さい。
好古揮毫原稿発見については、地元新聞、愛媛新聞に大きく報道された。
揮毫嫌いであった秋山好古は、大正13年以降は揮毫を頼まれると気持ちよく引き受け揮毫した。
それは、元内閣総理大臣・清浦奎吾氏が松山高等商業学校(現・松山大学)創立記念に松山に来られた時、道後温泉の尺車で早朝から各位から頼まれた揮毫を黙々とされている姿を見て、傍にいた新田長次郎から、好古に揮毫をするよう諭された。
好古が揮毫した石碑・扁額等々は大正13年以降のものがほとんどである。
愛媛県上浮穴郡久万高原町中組1845番地にある、三社神社の注連石に揮毫されている「御大典記念」である。
三社神社の「注連石(しめいし)」に刻まれた好古が揮毫した
写真左の
石 柱 =昭和3年11月建之 陸軍大将秋山好古謹書
右の石柱 =御大典記念
1、碑 文 :御大典記念(昭和天皇の即位記念)
2、所 在 地:上浮穴郡久万高原町中組 三社神社 「注連石」
3、揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
4、建 立 者:氏子
5、建立年月日:昭和3年11月
6、石碑大きさ:高さ 3m 70cm 表幅 42cm 横幅 36cm
7、石碑の由来:不明
8、石碑の材質:コンリート
全国で始めて原稿が発見された。
御大典記念とは、
天皇が即位することで、大正15年12月25日、大正天皇が崩御され、昭和3年に、大正天皇の喪が明け、同年11月10日、即位礼の儀式が京都御所で行われ、摂政宮裕仁殿下が昭和天皇として正式に即位されたことをお祝いし、建立したものである。
注連石、右側にある「御大典記念」を切り取ってみました。
年表によると昭和天皇は松山に四度行啓されている。
皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓された。
摂政宮殿下は、駆逐艦「谷風」でお越しになり萬翠荘に宿泊された。
海南新聞:
大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日、摂政宮殿下は陸海軍の大演習が温泉郡新濱村高浜沖で行われこの大演習を荒神山山頂から観閲された。
「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。
下の画像は、観閲されるお席、玉座。
海南新聞は、現在の愛媛新聞である。
象徴(人間)天皇となられ、戦後の全国巡幸せられ、摂政宮時代を入れ松山には下記の4回来られた。
第1回目は、大正11年11月14日、摂政宮時代、陸海軍松山大演習観閲行啓
第2回目は、昭和25年 3月17日~20日、戦後の復興巡幸
第3回目は、昭和28年10月22日、第8回国民体育大会開会式行幸啓
第4回目は、昭和41年 4月17日、第17回全国植樹祭行幸啓
大正天皇は、体調はあまり良くなく、地方行幸はされず、殆ど摂政宮・裕仁殿下が天皇の名代として地方行幸されていた。
大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が松山で行われ此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された時のお写真である。
摂政宮は、駆逐艦「谷風」でお越しになった。
皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓されたその記念碑で、軍の大演習があった方向に向けて建立されている。
揮毫は、秋山好古である。
松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。
大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
この時、萬翠荘は建築真っ最中で、摂政宮殿下の宿舎とするために突貫工事で完成を急いだ。
摂政宮殿下は2階のお部屋に泊まられた。
萬翠荘は、昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。
三社神社の注連石、左側にある「建立年月日と揮毫者 秋山好古」を切り取ってみました。
好古に揮毫を依頼した同神社、先々代の小野義直宮司が、直筆原稿を保存するために石工と相談して、作業用の原稿を写し取るときに、文字のはねた箇所を移しやすくするために、鉛筆でなぞった箇所が読み取れる貴重なものである。
三社神社の小野 哲也宮司さんの許可を得て3枚複製いたした一つを頂き軸物に表装し我が家の床の間に何時も掲げています。