EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本三代八幡造り 石清水八幡宮

2017年05月12日 | 伊予松山歴史散策

石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊30番地)

 愛媛県松山市道後温泉の直ぐ近くに、伊佐爾波八幡神社(湯月八幡宮)がある。この神社は、日本三代八幡造りの一つで、造営は、石清水八幡宮を模して造られたとされている。

この度、平成29年5月10日、石清水八幡宮を参拝して来ました。そして、その後、坂本龍馬の「寺田屋」大阪城「西の丸庭園」、新田長次郎が創立した大阪市立栄小学校(旧有隣小学校)を見学しました。また、久しぶりに、鍾馗さんを見つけましたのでそれを掲示しますのでご覧下さい。

なお、御本殿が、日本三代八幡造りは、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)と石清水八幡宮(京都府八幡市)と松山市の伊佐爾波八幡神社です。今回参拝した石清水八幡宮の本殿(八幡造り)は、普通の参拝では見る事が出来なかったです。特別な許可でも得れればでしょうが。

注1:この日は小雨がぱらつく天候でいい写真が撮れなかった。晴天の日であれば朱色の社殿が映える写真が撮れた事でしょうが残念でした。

注2:末尾に日本三大八幡造り、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)と石清水八幡宮(京都府八幡市)と松山市の伊佐爾波八幡神社の画像を掲示しておきます。

 

 

男山ケーブルカー山麓駅舎。

 京阪電車特急で、樟葉駅で普通電車に乗り換え、八幡駅で下車し駅前から男山ケーブルカーで、約5分で山頂駅に到着。ケーブルカーは15分間隔で運行していた。

男山ケーブルカー。

途中下りのケーブルカーと交差、交差する鉄橋が日本一の高さを誇ると説明がある。

山頂駅舎には「祝国宝石清水八幡宮本社」の表示板が掲示されていた。

平成28年2月9日、本殿以下三棟、棟札三枚が国宝に指定されたそうです。

画像の様な主な参拝箇所が掲示してあった。

今回の目的は、日本三代八幡造りの本殿の見分であったが、見えなかった。

一般の参拝者は、回廊に入れないので見えない。

手水舎で手を清め、南総門潜り、楼門・拝殿に向かう。

国宝、御本社の掲示板が目に付く。

石清水八幡宮は、伊勢神宮とともに皇室が祭祀を行う二所宗廟(にしょそうびょう)のひとつで、祭神は応神天皇こと誉田別命(ほんだわけのみこと)、宗像三女神(むなかたさんじょじん)の別名である比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后こと息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)で、この3柱を総称して八幡三所大神または八幡大神と呼びます。

創建は860年で、前年に空海の弟子である行教(ぎょうきょう)が宇佐神宮で受けた信託により、清和天皇が社殿を造営し、以後、朝廷の篤い崇敬を受けることになり、また足利氏や今川氏、武田氏などの清和源氏の有力所氏族より氏神として崇敬されたことから、武神、弓矢の神、必勝の神とされた。ここの八幡神が勧進されたのが鶴岡八幡宮です。
幕末までは東寺や比叡山延暦寺、仁和寺などの寺院と深い関係を持ち「石清水八幡宮護国寺」と称していたが、明治の神仏分離により神社となり、社殿は八幡造といわれる構造で国宝に指定されているほか、重要文化財に指定された建造物や美術工芸品が存在している。記事は、神社資料を引用。

全国各地に指定されている国指定の重要文化財建造物には、統一された掲示板が表示されている。

石清水八幡宮は、京の都を守る、裏鬼門にあたり、これを守護する神である。

そして、石清水八幡宮本殿の石垣は、鬼門を封じるために、鬼門の方角の石垣を切り取り造られている。

楠木正成の「楠」で建武元年に楠木正成が必勝祈願参拝の時に奉納したと伝えられている樹齢700年の御神木、京都府指定の天然記念物とある。

信長塀で、織田信長が寄進したと伝えられ、瓦と土を幾重にも重ね、銃撃や耐火にも耐久力に優れた塀とされている。

参拝時に手を清める「手水舎」で立派な造りであった。

手水舎には、次の言葉が揮毫されていた。「石清水 つきぬみいつを とこしえに くみてあがめむ 神の後光」

南総門から見た楼門で、右側の建物が「お札・お守り授与所」で御朱印も此処で受ける。

南総門から見た表参道。

三ノ鳥居から見た表参道奥に南総門がある。

石清水八幡宮の全体図で、標高143mに本社はある。

今回、石清水八幡宮を参拝して感じたことは、松山市の伊佐爾波八幡神社は、石清水八幡宮と比較したら、足元にも及ばない神社であるが、ただ本殿が八幡造りであることが唯一の誇りである。そのため、いま流行の御朱印ガールさん達が道後温泉観光に来られると必ず伊佐爾波八幡神社に参り御朱印を受ける女性が多い。石清水八幡宮・宇佐八幡宮にはない、観光地にある強みでしょうか。これから道後温泉に観光に来られた方をご案内する時の資料が出来ました。今回はいい勉強をさせて頂きました。

伊佐爾波八幡神社の規模は小さいが、日本三代八幡造りの一つ、石清水八幡宮や宇佐八幡宮では見る事が出来ない本殿八幡造りが手に取る様に間地かに見える強みが伊佐爾波八幡神社にはある。

石清水八幡宮の展望台から見た京都タワーとJR京都駅。

1360mm相当レンズで撮影。

宇佐八幡宮。

石清水八幡宮。

伊佐爾波八幡神社。

伊佐爾波八幡神社の本殿でこの造りが「八幡造り」で石清水八幡宮・宇佐八幡宮では、普通の参拝では見ることが出来ない。

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どうなっている、愚陀仏庵の復元は

2017年05月08日 | 伊予松山歴史散策

画像は、昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の愚陀仏庵で、場所は、松山市二番町三丁目7番地にあった。愚陀仏庵は、上の義方宅の離れの屋敷で、漱漱石の俳号「愚陀仏」から命名した。

 倒壊後、愚陀仏庵再建について大いに検討され、再建場所も、松山大空襲で焼失し本来の地、倒壊前の萬翠荘の裏地、道後地区の上人町(宝厳寺前)と候補地が上がり直ぐにでも再建されるのかと思っていたが、もう倒壊してから7年が経過した。

今は、松山市も愛媛県も今秋開催される第72回全国体育大会・えひめ国体(平成29年9月30日~10月10日)第17回全国障害者スポーツ大会(平成29年10月28日~10月30日)の開催準備でてんてこ舞い、国体が終了してから再建問題は浮上するのか?立ち消えになるのか今は再建の声は聞こえてこない。

 昭和57年に松山市一番町三丁目にある萬翠荘の裏に復元した愚陀仏庵で此れが平成22年7月12日土砂崩れで倒壊する

前の愚陀仏庵。

 倒壊前の愚陀仏庵で、句会や、お茶会が開催されていた。 場所も、久松定獏の松山邸宅として建設した萬翠荘(国指定重要文化財)の裏手にあり、松山城の山麓に位置する歴史文化が漂う場所にあった。 萬翠荘は、大正11年、旧伊予松山藩主の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建設したフランス様式の建物です。

  

 

 

 

 

 

 

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NHK「にほん縦断心旅」愛媛県東温市編

2017年05月05日 | 伊予松山歴史散策

全国を自転車で巡る旅番組「にほん縦断心旅」は、今年で放送5年を迎えるそうです。今回は、四国を出発点として、愛媛県を旅するとの事でしたので、何処を走られるのかなと思い見ておりました。

平成29年4月6日、午後7時から放映された番組を見ていますと、松山城三之丸(現、城山公園)で、火野正平が視聴者からの手紙を読まれました。今回の目的地は、東温市の見奈良にある、菜の花畑を見る事でありました。

どんなルートで行かれるのかTVを見ておりますと、なんと我が校区の画像が流れてビックリしました。私が通る小野川沿いの風景です。

今後、こんな事は絶対にない事なので、カメラを持って通られた道を辿ってみました。

この番組は、朝版と夜版と二回放映があり内容が少し違います。私の心の記録としてブログに掲載しました。

城山公園で、火野正平が視聴者からの手紙を読まれました。

いざ、東温市見奈良に向けて出発。

火野正平さん自転車隊一行、この時、神奈川県から観光に来ていた女性との会話がありました。・・何時も拝見しています。・・ありがとう、冗談で拝観料下さい・・笑いの声が流れました。

松山市の人口は、4月1日現在、512、373人、松山市一番の繁華街を通り抜ける火野正平さん。

中村三丁目の食堂で昼食を(カレーライス)を食べられて、次からの画像が、私がよく通る道が出て来たので驚きました。

東温市に行くには沢山のルートがありますが、何故かこのルートを選択されました。

まさか、この道を通り目的地に行かれるとは!!

火野正平さん自転車隊一行、放映された画像。

私は、この橋と背景の画像を見てすぐ分かりました。

この画像は、先日、5月1日、撮りました画像です。

橋が見えますが、落合橋で、松山市南久米町になります。

暫く川沿いを走られましたが、この川は、小野川と言い、3km程下流には、伊丹十三記念館があります。

また、中世鎌倉時代、博多湾に蒙古が襲来した時に活躍した「河野通有・博多湾で石塁を背にして勇敢に戦った。河野の後築地」その河野通有の城「縦渕城」跡がある由緒ある地域です。

上の画像と同じところです。

松山市内から、東温市見奈良に行くにはいろんな経路がありますが、私がよく通る道を選択されたなと、何だか嬉しくなりました。

NHK松山放送局の方々の意見も参考にしてこの道を選ばれたのでしょう。

この場面は、朝版に映された場所ですが、これは、レモンです。

火野正平さんは、通り過ぎてから思はず引き返されて、珍しい川の土手にレモンが植えてあると確認されました。レモンの木は、一本だけです。

残念ながら、火野正平さんがご覧になった画像は朝版であったため消してしまいました。

これがそのレモンです。火野正平さんが通られ撮影されたのは3月だったのでは?

画像のレモンは、5月1日撮りました。

小野川の北側の堤防を走行されました。此処は、松山市来住町です。

経路の直ぐ傍に「お食事処」の店がありまして、4月27日、中学の同期生4人で食事会をしました。女将さんに、先日、NHK番組「にほん縦断心旅」の収録で、お店の横を自転車で走行されましたよ・・と話をすると、知らなかった。私、火野正平さんのファンです。お目に掛かりたかった・・残念と言われました。

此処は、松山市久米窪田町で、テクノプラダ愛媛の前を走行され、いよいよ東温市に入ります。

東温市と松山市の境界線で、この時火野正平さんは、南国愛媛の山にも雪がある。・・と言われると、スタッフの一人が、西日本最高峰の石鎚山ですと説明の声が聞こえました。現在は、雪は解けましたが、収録の時はまだ冠雪がありました。

この日は、春霞であったので、石鎚山は鮮明に見えなかったですが、火野正平さんには、南国愛媛の山にある雪が珍しく目に映ったのでしょう。

目的地、東温市見奈良の菜の花畑に、とうちゃこです。

約1.8ヘクタールの広大な敷地に、春は、菜の花まつり、秋(毎年9月上旬~10月上旬)にかけて約100万本のコスモスが見頃を迎えるコスモス畑に変身し、コスモスまつりが開催されます。

若い4人組の女性が自撮りをしていたら、火野正平さんがスタッフに、シャッター押してあげたら・・早速記念写真。4人の女性達、一生の思い出として心に残る事でしょう。

シャッターを押されたスタッフ・・有難うございました。・・お礼の言葉が返って来ました。

菜の花畑で、視聴者からの手紙を読まれる、火野正平さん。

菜の花は、200万本植栽されているそうです。

秋には、コスモス畑に変身します。

視聴者からの手紙を読まれる火野正平さんその手紙です。

心温まる画像です。

松山市から東温市の「にほん縦断心旅」終了しました。

私も映像で、そして現地を辿り、いい心旅をさせて頂きました。

火野正平さん、スタッフ一同の皆さん、そしてチャリオ君、お身体に気を付けていい旅をお続け下さい。そして心に残る番組を放映してください。多くの方たちが楽しみにして見ております。ご苦労様でした。

 

 

 

 

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俳誌「ほとゝぎす」の創設者 柳原極堂の句碑建立除幕式

2017年05月01日 | 伊予松山歴史散策

 今年、子規・漱石・極堂生誕150年を迎え、松山市では色んな記念行事が開催されている。その一つとして、俳誌「ほとゝぎす」の創設者、柳原極堂(慶応3年2月11日~昭和32年10月7日)生誕150年を記念し、顕彰団体「松山極堂会」が、記念の句碑を4月30日に松山市北立花町の井手神社境内に建立しその除幕式が行われた。

極堂、本名は正之、正岡子規(慶応3年9月17日~明治35年9月19日)と同年生まれで明治30年には、俳句雑誌「ほとゝぎす」(後のホトトギス)を創刊。子規の死後も顕彰に尽力した人物である。明治29年、子規から号を「極堂」とするようにいわれ、 以後これに従った。

 その生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。

  松山市北立花町の井手神社境内に建立された句碑は、極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」の句碑で、「松山極堂会」の高橋俊夫会長は、「今年は子規・漱石」生誕150年が注目されているが、同じく生誕150年の極堂の功績も知ってほしい」と語られた。

 除幕式を待つ会場の井出神社。

明治29年、子規から号を「極堂」とするよういわれ、以後これに従った。明治30年、子規と共に月間俳誌「ほとゝぎす」を創刊。その後、海南新聞の編集長になり、松山市会議員にも四度選ばれる。 明治39年には伊豫日々新聞を再刊して社長になり、20年間新聞発行を続ける。氏の生涯は子規研究およびその顕彰に捧げられた。 昭和32年に松山市名誉市民の称号を贈られる。

 

 除幕が行われ挨拶をされる、高橋俊夫、松山極堂会会長。

 除幕式に参列された関係者。

 除幕された、句碑。

 極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」の句。

 祭壇には、柳原極堂の遺影が飾られていた。

 句碑の傍に設置された説明版。

 平成29年4月30日、井手神社境内に建立され、除幕しお披露目された柳原極堂の句碑。

 極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」。

 極堂の句碑は、井手神社鳥居の直ぐ右側に建立されているが、左側には、正岡子規の句碑がある。二人の句碑が向かい合っている形で建立された。子規の句碑は、「薫風や大文字を吹く神の杜」が建立されている。

句碑の裏面で建立の経緯が書かれている。

 今朝改めて、写真を撮りに行くとご婦人が、除幕式を終えた真新しい句碑をご覧になっていた。

 画像に、子規の句碑と記載している所に、子規の句碑、「薫風や大文字を吹く神の杜」が建立されている。

 私が句碑の写真を撮っていましたら、奈良県橿原市から来られた方が盛んに神社の写真を撮っておられ、伺うと、その方の家紋が「橘」で同じ橘の社紋の全国の神社を訪れていると話された。井手神社の社紋が橘です。

 なお、井手神社は、松山三大夏祭りが開催される由緒ある神社の一つです。

 

 建立された井手神社の北側にある、俳誌「ほとゝぎす」創刊の地があった。(極堂の居住地)

 その俳誌「ほとゝぎす」創刊の地の説明版。

  俳誌「ほとゝぎす」創刊の地、松山市北立花8番地に記念碑が建立されている。

 極堂は、「ほとゝぎす」創刊し、子規を懸命に支援顕彰し続けた人であった。それ故にその生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。

 

 俳誌「ほとゝぎす」は、明治30年1月、子規の俳句運動を後援するため、極堂は俳誌「ほとゝぎす」を創刊した。

部数は300部で、1部6銭、20号までこの地で発行し、21号から高浜虚子が東京で受け継いだ。

 

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