EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山淳五郎眞之の生涯

2016年03月15日 | 伊予松山歴史散策


大正4年に撮影した写真を元にして丸山画伯がカラーに描き上げた肖像画。
平成22年、千葉県習志野市大久保、薬師寺・三橋秀紀住職からの寄贈。


秋山眞之中将時の写真で47歳の時である。
この写真を元にしてカラー肖像画にした。

本日天氣晴朗なれど浪高し
「敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直に出動之を撃滅せんとす。
本日天氣晴朗なれど浪高し」・・日本海海戦を追想する時、誰もが脳裏に蘇って来る名文であ
る。
これが時の聯合艦隊先任参謀として東郷平八郎長官の陣営にて作戦計画の機務に当たった秋山眞之であった。
「皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」というZ旗の意味であるが、信号分の原作者は、やはり秋山ではないかといわれている。

眞之は、海軍兵学校時代、薩摩の郷中教育を参考にして創られた松山同郷会、青少年の文武両道の教育、今もその名残の一つが秋山兄弟生誕地にある武道場で青少年に合気道と柔道をとして心身の教育をしている。
眞之は若くして逝去し栄光を称えて、郷里の人達が銅像を建立、その時東郷平八郎は「智謀湧如」を揮毫した。
慶応4年3月20日:伊予松山藩15万石、徒歩目付の秋山久敬5男として誕生した。幼名、淳郎、元服して眞之、坂本龍馬が慶応3年11月15日、暗殺されるが、その翌年に生誕した。
今年148年祭を3月20日、秋山兄弟生誕地で開催される。

秋山眞之家系

父 平五郎久敬     文政 5年 3月 5日生~明治23年12月19日没 68歳
母   貞        文政10年11月14日生~明治38年 6月19日没 78歳

長女 種          嘉永2年12月12日生~嘉永5年12月12日没  3歳
長男 則久 (幼名 鹿太郎)嘉永6年 8月17日生~大正2年 2月 9日没 60歳
次男 正矣 (幼名 寛二郎)安政3年 1月19日生~大正6年10月18日没 61歳
3男 好古 (幼名 信三郎)安政6年 1月 7日生~昭和5年11月 4日没 71歳
4男 道一 (幼名 善四郎)文久元年10月30日生~明治36年3月 6日没 42歳
5男 眞之 (幼名 淳五郎)慶応4年 3月20日生~大正7年 2月 4日没 50歳

秋山眞之の官歴

明治16年、東京大学入学を目指し、正岡子規、清水則遠と3名で上京し、東京予備門学校に入学し勉学その時夏目漱石がいた。
眞之は東京大学進学を断念し海軍兵学校に入学した。

明治19年10月30日:18歳・海軍兵学校入学
明治20年 7月25日:19歳・学術優等を授與
明治22年 7月19日:21歳・学術優等に付き優等章を授與
明治23年 7月17日:22歳・海軍兵学校教程、首席で卒業・同日海軍少尉候補生を拝命
明治25年 5月23日:24歳・海軍少尉拝命・同年7月6日、正八位
明治29年10月24日:28歳・海軍大尉拝命
明治30年 6月26日:29歳・米国留学
明治31年 6月 2日:30歳・米西戦争視察
明治32年 2月 8日:31歳・米国北大西洋艦隊「ニューヨーク」号研学のため乗艦
明治33年 5月20日:32歳・米国から帰国
明治33年 8月21日:32歳・英国に駐在補海軍軍務局員として留学
明治34年10月 1日:33歳・海軍少佐拝命
明治35年 7月17日:34歳・海軍大学教官
明治37年 9月 1日:36歳・海軍中佐拝命
明治38年 6月14日:37歳・聯合艦隊先任参謀、旗艦三笠に乗船
明治41年 2月20日:40歳・戦艦三笠副長
明治41年12月10日:    戦艦音羽艦長・橋立艦長・伊吹艦長歴任
大正 元年12月 1日:44歳・海軍軍令部参謀
大正 2年12月 1日:45歳・海軍少将拝命
大正 3年 4月17日:46歳・海軍省軍務局長
大正 6年12月 1日:49歳・海軍中将拝命
大正 7年 2月 4日:50歳・従四位 特旨を以て位一級被進
大正 7年 2月 4日:小田原で逝去最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位 勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
            小田原で逝去・・50歳の短い人生を駆け抜けた。
            辞世の句「不生不滅明けて烏の三羽かな」

明治16年、東京大学入学を目指し、正岡子規、清水則遠と3名で上京した。
辞世の句「不生不滅明けて烏の三羽かな」の三羽は、正岡子規、清水則遠と眞之ではないかと言われている。
東京予備門学校に入学しその時夏目漱石がいた。


昭和6年秋山眞之13年忌、日本海海戦25周年に当たり、奥平清貞の提唱により銅像建設の議が高まり、井上要他4名の諸氏が発起人となり、昭和6年8月1日、壮大なる除幕式が建立地である道後公園(湯築城跡)で挙行された。
東京の発起人代表として桜井眞清少将が祝辞を述べた。
桜井眞清は、昭和8年2月10日、刊行された、書籍・秋山眞之の発行者である。
彫刻は、藤川勇造の苦心の作である。


昭和6年8月1日、建立された秋山眞之の銅像の台座には「智謀如湧」がある。
揮毫者は、元帥伯爵東郷平八郎で、東郷が秋山眞之の為にとっておいた言葉であった。
智謀如湧の上には戦艦三笠の浮彫にした彫刻が施されている。
銅像は、金属供出で潰されたが、智謀如湧と戦艦三笠の浮彫にした彫刻は保管されていて、昭和38年に再び秋山眞之の銅像が石手寺に再建立された時に「智謀如湧と戦艦三笠の浮彫にした彫刻」は台座に埋め込まれた。ある事情で昭和43年9月、梅津寺の伊予鉄道管理の敷地に移転された。



秋山眞之の銅像が建立された後、昭和11年1月11日、秋山好古の銅像が建立された。
場所は、湯築城跡で現在の東屋当たり。
兄好古が眞之を見届ける様に建っていた。・・淳お前はよくやった・・と言って。
左後方の山は、伊予松山城。
秋山兄弟の銅像は、大東亜戦争の時金属供出として潰された。


秋山眞之の胸像で、大正13年、海軍大学校教官時代の教え子の一人、都留信人大佐が中心となり醵金をして当時、都留大佐はイタリア大使館勤務で、彫刻はイタリア人のマリォ・リナルディに頼み創られた。
胸像は大正14年9月30日横浜に到着、斉藤中将が軍令部長室で10月秋山眞之の遺族に贈呈した。未亡人は胸像を海軍大学校に寄贈、同校の新校舎に安置された。
先の大戦で連合軍による没収を恐れ一時期秋山家に返納されたが戦後海上自衛隊返納、現在は海上自衛隊幹部学校(目黒区)に安置されている。
平成17年5月12日、海上自衛隊の許可を受けて撮影した。


大正13年に創られた眞之の胸像を防衛省の許可を受けて此れを模して平成17年1月18日、常盤同郷が復元し秋山兄弟生誕地に建立した。
眞之の胸像台座左側に、彫刻家・マリォ・リナルディの銘が刻まれている。
平成17年1月18日、生家・兄弟の銅像作製の費用は全国の秋山好古・眞之の支援者の皆様からの醵金で完成した。


昭和38年に再建立された秋山眞之の銅像で昭和43年9月石手寺から梅津寺に移設された。
昭和6年に建立された銅像は双眼鏡を持っていたが、再建立された時は、書物を持っている。
手前の石は旅順港閉塞作戦に使われた福井丸に積まれていた石で、大分県竹田市にある「広瀬武雄神社」から贈られた「護国の石」。


秋山眞之の家族の人たち。
同期トップをきって順調に昇進したが最後に待命になったのは病気が重くなった為である。
眞之は、海軍軍人として海上勤務が長く、東京にあっても軍務局長のような激職勤務があり、孫文の革命活動支援に関係をもつなど各界方面に間口が広く、家庭を顧みる暇は殆どなかった。
家庭の事は妻にまかせっきりで子供の教育にもなかなか割けなかった。
眞之は、次々に生まれる子供に名前を付ける時ひとつの主義を持っていた。
 名は、簡単を第一として一字とし字は子供が小さい時から自分の名だけは書き覚え易いように、字画はできるだけ少ないものとした。
 しかもその上、字は左右同形の「シンメトリー」な文字とした。
 こうして名付けられた子供の名は、長男から順に「大(ひろし)固(かたし)中(ただし)少子(わかこ)全(やすし)宣子(たかこ)である。
長女の少子だけが左右同型の原則をはずれているがこれは大、中、につぐ小の字をきらって「少」としたことからだそうだ。


秋山眞之、季子夫人


伊予松山出身の名士たちで、真ん中の軍服姿の御仁が旧伊予松山藩主、久松家第16代久松定謨で、後列に秋山眞之も映っている。
秋山兄弟が映っている写真は珍しい。
この写真は、東京の久松家の屋敷で、久松家の法要の時ではないかと言われている。


大正7年2月4日、小田原で逝去した山下汽船、山下亀三郎氏小田原の別荘。
秋山眞之は、小田原に居た山県有朋に此れからの日本は山形さんが中心になり建国されて行かれる方だから、米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。
でないと日本は駄目になってしまいますから・・とお願いに行っていた時、盲腸を患い腹膜炎を起こし亡くなった。
小田原には腹膜を治療する医者が居なかったと伝えられている。


昭和8年2月10日発行された「秋山眞之」のしおり。


昭和8年2月10日発行された「秋山眞之」の奥付。
著作兼発行者、桜井眞清は、眞之銅像除幕式の時に祝辞を述べた御仁で、幼少時は眞之の一の子分として徒歩の子供と、町屋の子供がよく喧嘩した仲間、花火を造り打ち上げ警察に追われた仲間の一人、幼少時から有能であった。
昭和11年11月1日、書籍・秋山好古が刊行されるが発行者は、桜井眞清である。


昭和62年東京の青山霊園から移設した秋山眞之の墓で、鎌倉霊園に今は家族と一緒に眠っている。


鎌倉霊園に在る秋山家の墓、尊敬した兄好古も単独の墓は要らぬとして逝去した。
眞之も兄にならって単独の墓は創らなかった。
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JR四国・予讃線アンパンマン列車電車で登場お披露目会

2016年03月13日 | 伊予松山歴史散策


アンパンマン列車先頭車両(1号車)で、編成は8両編成、1号車のみにアンパンマンシートがカラフルな座席が施されているそうだ。

3月26日のJRはダイヤ改正を実施、それに伴いJR四国は予讃線を走るアンパンマン列車を電車に変更した。
今までは、気動車であったがダイヤ改正に伴い「しおかぜ・いしづち」が新型の8600系に変更され、8000系で運行していた「しおかぜ・いしづち」を改装し「アンパンマン列車」として運行するにあたり昨日JR松山駅3番ホームでお披露目展示会が開催され大勢の子供、孫を連れて見学に訪れていた。
展示時間は午前11時30分から12時30分の1時間、駅に行ってみると大勢の行列、盆と正月が一緒に来たような大混雑、私もカメラ持参で行って来た。
私は、乗鉄でも撮鉄でもないので車両の説明が出来ないので画像で想像して下さい。










アンパンマン列車展示会様の掲示板。


長い列をなして待っていた見学者、これより3番ホームに移動、改札口の掲示板。


電車型に変身したアンパンマン列車、昨日は冬型の天候であったが快晴で写真を撮るには絶好の天気であった。・・子供達も大喜び、大人も子供よりも楽しんでいた。


構内に停車していた新型、特急しおかぜ・いしづち8600系の電車車両で3月26日から運行する。
特急しおかぜは、松山―岡山 特急いしづちは、松山―高松間を運行する。


この車両が、現在の特急しおかぜ・いしづち8000系の電車車両で、今回改装してアンパンマン列車として運行する。列車は8両編成である。


昨日のアンパンマン列車展示会のJR松山駅が発行した整理券、松山駅は4000枚の整理券を準備したそうだ。
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愛媛の社会教育の中核拠・愛媛県生涯学習センター

2016年03月11日 | 伊予松山歴史散策


3月10日(木)午後久しぶりに、松山市上野町にある「愛媛県生涯学習センター」に行って来た。
平成25年3月7日、新潟市の北方文化博物館理事、神田氏を案内して以来の訪問で、愛媛の生涯学習の拠点でありながらゆっくりと見学した事がなかった。
同学習センター内にある、愛媛人物博物館が2階と3階に渡って人物の写真と略歴が資料として展示してある。
江戸時代、伊豫国は加藤嘉明と藤堂高虎によって始まり明治維新を経て現在に至っているが、その間に、教育・政治・産業・文芸・芸術・芸能・スポーツの各分野で活躍した人々が簡明に紹介されている。
小学生高学年であれば十分に学習できるよう配慮されており是非松山市内はもとより、県下の小学校は校外学習の一環として同センターで学習して欲しい。
なお、駐車場は大規模の駐車場が完備されている。
次回は、弁当持参でゆっくりと見学学習したい。
ただ気がかりなのは、公共の交通手段があまり良くないのである。松山市内からの直行バスが運行されてなく、森松営業所で乗り換える必要がありそのうえ便数が少ない。
近くには、動物園、陸上競技場、えひめこどもの城があるのだから、市内から循環バスとして、動物園、陸上競技場、こどもの城、生涯学習センターを循環するバスを運行してもらいたい。
松山市内在住者は愛媛県生涯学習センターに公共の交通機関で行く方法を案内出来る人は少ない。
愛媛人物博物館の展示物は素晴らしい、是非行ってみて下さい。

愛媛県生涯学習センターの所在は、松山市上野町甲650番地。


愛媛県生涯学習センター正面玄関。


愛媛県生涯学習センター東から見た全景(裏になる)で高台にある。


掲示板の様に三つの教育施設がある。


各施設の案内板。


愛媛県生涯学習センターにある「愛媛人物博物館」ここの展示物が素晴らしい。
平成25年3月7日、新潟市の北方文化博物館理事、神田氏を案内した時に展示物が素晴らしいと絶賛された。新潟市の北方文化博物館佐藤専務理事(学芸員)さんも一度伺ってみたいと言っておられる。


此れからの画像は昨日、愛媛人物博物館の許可を得て撮影した。
条件は、アップの撮影でなく、全体の風景的な写真としての撮影が許可条件であった。




この人物だけは特別に撮影をさせてもらった。

伊佐庭如矢が、松山の観光の源である、松山城天守の存続と道後温泉本館改築に多大なる尽力をした。
明治6年政府は全国の城の廃城令を公布した。
松山城廃城方針に対して愛媛県は松山城の公園化を訴え、城の楼閣全ての無償払い下げを実現し天守の存続に尽力した。
※公園永久維持之儀 申上候書を愛媛県参事江木康直名で申上候書を起案したのが伊佐庭如矢で、それに対して、内務卿木戸孝允の指令が「書面に松山城は、再建後まだ日が浅く、人民の愛慕強く・・中略・・格別の配慮を持って楼閣・櫓の全てを無償で公園に指し下すと松山城の公園化を指令した。
※道後温泉の興隆化、明治20年代道後温泉を象徴する建物、100年後を見越した3階建ての本館建設に尽力し道後地区の発展に尽くした。
※もう一つの功績「湯ざらし団子の考案」
「坊ちゃん団子」は道後の名物として有名だが、これは夏目漱石の小説にちなんで生まれたとされている。これは道後温泉東方に「振鷺園」と称する休憩所「風詠館」を造り伊佐庭の発案「湯ざらし団子」を売り出した。これが「坊ちゃん団子」となり今日に至っている。





愛媛と言えば野球、楽しみが湧く展示をしていた。


愛媛県からはオリンピック選手も出ていて金銀メダルを獲得している。
その選手たちが着用した制服が展示してあった。


愛媛県生涯学習センター・愛媛県総合教育センター・えひめ青少年ふれあいセンター・三施設共同使用の大きな駐車場が完備してある。


愛媛県生涯学習センターから見た松山市のシンボル「松山城と天守」。
また弁当持参でゆっくりと見学に行ってみたい。
次回は自転で。

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秋山好古揮毫石碑紀行予定 52 長野県安曇野市の碑

2016年03月07日 | 伊予松山歴史散策


秋山好古が揮毫した内田與作騎兵隊員の墓石。
51回に渡り、秋山好古が揮毫し建立された石碑を掲載して来ました。
現在全国に発見されている、秋山好古が揮毫し石碑として建立されているのが52基で、その52番目に発見された石碑(墓石)が長野県安曇野市の石碑(墓石)です。
これからその石碑(墓石)紹介しますが、写真は神奈川県平塚市広川在住の添田吉則さんが撮影された写真です。
私の取材は、季節の良いときに行こうと考え、5月下旬、長野県安曇野市に行く予定をしており、この石碑が最後の碑となると思いますし、墓石は初めてです。
詳細は、私が取材後に紹介いたします。
帰りに、日本100名城第18番、鉢形城と第22番八王子城を見学して来ます。



墓石左側に、陸軍騎兵大佐従五位勲四等功三級
      秋山好古 謹書題標字
      陸軍騎兵大尉正七位勲六等功五級
      稲垣三郎 謹撰並書
      明治三十五年壬寅一月十一日
と書かれている。・・好古44歳の時である。



内田與作騎兵隊員の墓石には三面に渡り当時の事柄が書かれているそうです。


詳細は、私が取材に行き改めて紹介いたします。

長野県安曇野市の石碑を発見されたのは、神奈川県平塚市在住の添田敬子氏で、敬子氏はNHK放送大学の卒業論文として取り上げられたのが、「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」副題が「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」で、この論文の発端は、東京都世田谷区池尻に、秋山好古自身が明治29年6月30日に建立し、日清戦争で戦死した15名の階級と氏名を書き哀悼碑として好古が建立し後世に伝えたのが発端である。

この石碑は私が平成18年10月6日、現地取材に行き、その後、平成24年4月18日、好古が揮毫した添田賢次郎騎兵隊員の招魂碑の拓本を持参して、賢次郎騎兵隊員の孫の奥様(敬子氏)が秋山兄弟生誕地に来館、その時世田谷区の哀悼碑を知り、裏面に添田賢次郎騎兵隊員の名前がある事を初めて確認されたのである。
その後敬子氏は、15名の遺族の消息の調査を始めた。
国立国会図書館他等々の関係施設で調べその結果3家族の方々と連絡がとれた。
その一人が長野県安曇野市の内田與作騎兵隊員の石碑(墓石)であった。
そして卒業論文を書き上げた。
好古は、15名の戦死した家族から依頼を受けて漢詩で哀悼の言葉を書き、それを遺族は石碑として建立した方々が、添田賢次郎隊員と内田與作騎兵隊員の遺族であった。


日清戦争騎兵隊の戦没者 東京都世田谷区池尻の哀悼碑

哀悼碑の表面
「征清之役戦死者哀悼碑建設工ヲ竣ル茲二其ノ姓名ヲ勤シ永久後世二傳フ
明治二十九年六月三十日
騎兵第一連隊長 秋山好古謹記」
と揮毫されている。・・秋山好古、38歳の時である。

東京都世田谷区池尻に在る石碑で、平成18年10月5日、世田谷区役所の許可を得て取材をした。
明治29年6月30日後世に伝えるために好古自身が哀悼の言葉を揮毫して石を調達して裏面に15名の戦死した氏名階級を書き後世に伝えるために建立した。
建立地は、国有地で管理は関東財務局が管理しているが、石碑の関知はしておらず、碑の管理は世田谷区役所が行っている。
この石碑は、今から123年前に好古が建立したもので、私の好古揮毫石碑取材の出発点であり、52基の内一番古い石碑である。
いつ何時、関東財務局は石碑の撤去指示を出すかも計り知れない。・その時は、秋山兄弟生誕地に譲り受けて再建立の許可を頂けるよう世田谷区役所に請願書を提出してある。
松山市の石工に移設の見積もりを取っているが、場所は重機が入れない所なので全て人力作業となり多額の費用が掛かる。


石碑は、画像の様に文字は、長年の風化により字が浅くなり写真に撮ると判読が難しく、世田谷区役所の許可を得て文字に墨を入れて撮影した。
作業は世田谷区役所職員立会の下が条件で、撮影の日時も区役所の指定された、平成18年10月5日、午前9時現地集合で、職員は2名来られた。
撮影終了後は、墨を洗い流し現状に復帰させた。・・これが撮影条件であった。


石碑裏面に日清戦争で戦死した騎兵第一連隊、15名の階級と氏名を書き、好古自身が、明治29年6月30日、に建立した。
石碑裏面の文字も風化により文字が浅くなって読み取りにくい。
真ん中当たりに、添田賢次郎騎兵隊員と内田與作騎兵隊員の氏名が奇しくも並んで書かれていた。

石碑裏面に、階級・氏名・戦没年・戦没地が書かれている。

陸軍騎兵少尉     山口 毅夫   明治二十八年 二月十三日 広島陸軍豫備病院
陸軍騎兵曹長     吉田 四朗   明治二十八年 二月 八日 老居爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂 立    明治二十七年十一月十七日 龍口
陸軍騎兵一等軍曹   渡邉 武松   明治二十八年 二月 八日 二道河
陸軍騎兵一等卒    西澤 三十   明治二十八年 二月二十四日 太平山 
陸軍騎兵一等卒    根本 由之助  明治二十八年 二月 八日 高刋
陸軍騎兵一等卒    羽毛田 安太郎 明治二十八年 二月 八日 老居爺廟
陸軍騎兵一等卒    添田 賢次郎  明治二十八年 二月 八日 二道河
陸軍騎兵一等卒    内田 與作   明治二十八年 二月 八日 二道河
陸軍騎兵一等卒    新井 斧三郎  明治二十七年十一月十九日 龍口
豫備陸軍騎兵一等卒  小野田 勝三郎 明治二十七年十一月十九日 龍口
陸軍騎兵一等卒    飯尾 金彌   明治二十七年十一月十八日 土城子
陸軍騎兵一等卒    芝崎  章   明治二十八年 二月二十二日 聶家堡子
豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬 音吉   明治二十七年十二月三十日 蘇家屯
陸軍騎兵一等卒    蕪木 夘八   明治二十八年 一月三十一日 朱家旬子
 




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一遍上人生誕地 宝厳寺の再建状況

2016年03月06日 | 伊予松山歴史散策


先日、私のブログにコメントを頂きました。
再建中の宝厳寺は、何時完成しますか?完成したらお参りに伺いますと。
現在の宝厳寺を紹介します。
新しく再建中の宝厳寺本堂で、平成28年3月4日撮影しましたのでご覧ください。

一遍上人の生誕地、宝厳寺(時宗)は平成25年8月10日、午後2時過ぎ不審火により本堂・庫裏が全焼し、国指定重要文化財「一遍上人立像」も焼失した。
平成26年12月22日、宝厳寺再建の計画が進み、再建鍬入れ式が行われ、本堂、上人堂、庫裏が再建工事中である。
宝厳寺の新しい建物は、庫裏の有った場所に本堂を、本堂のあった所に庫裏を再建、新たに本堂と庫裏の間に上人堂が造られている。
画像は、その様子、3月4日現在である。
なお、落慶法要は5月14日の予定。詳細は未だ決定していない。
参考事項:宝厳寺は、天智天皇の4年(665)国司乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が建立、のち伏見天皇正応5年(1292)天台宗を時宗に改めた。
一遍上人は、延応元年(1239)、伊予豪族、河野通広の次男として宝厳寺で誕生、南無阿弥陀佛を唱え全国を遊行した時宗の開祖。
時宗の総本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺である。


平成25年8月10日、午後2時過ぎ火災発生、撮影は、松山城天守最上階から私が撮影した。


焼失前の宝厳寺本堂。


平成26年12月22日、再建に向けて前進、再建工事の工が始まった。


平成26年12月22日、再建に向けて前進、鍬入れ式。


平成25年8月10日、不審火で全焼した宝厳寺、再建に向けてのお願い掲示板。


宝厳寺境内全景、右から、本堂、上人堂、庫裏。




再建中の宝厳寺本堂(焼失前にはここに庫裏があった)


新しく創建された「一遍上人堂」で既に完成している。


宝厳寺参道入り口で立派な寺号碑が建立してある。
終戦後まで道後の花街として栄えた街で当時は松枝町と呼ばれていた。


宝厳寺の山門で、火災は免れた。
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