EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

昭和20年7月26日、松山大空襲

2011年07月26日 | 伊予松山歴史散策
今日7月26日は、66年前松山大空襲の日である。

昭和16年12月8日に日本国は、真珠湾を奇襲攻撃し米英に対して宣戦布告、大東亜戦争になった。その後日本は劣勢になり、沖縄戦線、本土空襲を受け、広島、長崎に原子爆弾を投下され昭和20年8月14日ポツダム宣言を受諾し
8月16日連合軍から日本軍に対し停戦命令、9月2日戦艦ミズリー号で降伏文書調印、昭和27年4月28日平和条約「サンフランシスコ講和条約」の締結が発効され戦争状態の終結日となり、日本が戦後初めて主権が認められ占領国から独立をしたのである。(先進国で独立記念日を祝わないのは日本だけである)

松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が松山を爆撃し一瞬にして焼け野原となった。

慶長5年(1600年)加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで武勲を上げ徳川家康から伊予国20万石を拝領し慶長8年(1603年)10月この地を「松山」とすると言ってから長い年月を掛けて築き挙げてきた松山の街は、342年後の
昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。

これで江戸時代から構築してきた松山の街は、一夜にして焼け野原と化した。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下された。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。

松山の戦後昭和20年から昭和46年代の画像を入手したので紹介します。


昭和15年の画像で左の建物は日本銀行松山支店、右の空き地は,現在の伊予銀行本店。


昭和20年7月26日松山大空襲で残った建築物、県庁前から大街道方面。


昭和22年復興の兆しが見えてきた松山。現在のロープウエイ街、奥の山は松山城の一部。


昭和24年の上一万交差点。


昭和22年、一番町交差点、映画館「ロマン座」現在は愛媛銀行大街道支店。


昭和25年時代、東堀端、左の建物は県会議事堂。右の更地は、進駐軍の命令で一部埋め立てられた三の丸堀の一部。


昭和26年代の一番町交差点。


昭和28年代、南堀端にある農協会館。


昭和28年代の映画広告「野立て看板」。


昭和21年の三越松山店として開店した。三越としては戦後初の新規出店であった。


昭和35年代の勝山交差点、右の建物は愛媛銀行本店。


昭和46年代の大街道一丁目。


昭和46年代の大街道一番町口。
コメント (1)
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