EEKの紀行 春夏秋冬

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三机湾・・真珠湾奇襲攻撃訓練の場所

2011年02月23日 | 往年の名車 メグロ

三机湾・・真珠湾奇襲攻撃訓練の場所

以前から是非行ってみたいところであったが行く機会がなく昨日急に思い立って三机に行って来た。
三机の場所は、岬13里といわれる佐田岬半島(日本で一番長い半島)を縦走する頂上線(国道197号)のメロディーラインのほぼ中央に位置し戦争中は西宇和郡三机村、その後西宇和郡瀬戸町、そして西宇和郡伊方町となって現在に至っている。
三机が有名なのは、太平洋戦争開戦2年前の昭和14年頃から日本海軍は秘密兵器、特殊潜航艇の訓練基地として三机湾を選び、極秘で訓練を開始した。

最初のうちは1ヶ月おきに1週間から10日位の滞在だったが、日米間の雲行きがあやしくなった昭和16年の春頃から泊り込みとなり、訓練も激しくなったと言われている。
三机湾の沖には母艦「千代田」が止まり、潜航艇は厳重に布袋をかぶせ、超極秘の訓練で地元の人たちは知る由もなかった。
士官の宿舎となった石宮旅館、と松本旅館の関係者以外の一般の人々との接触は特になかった。

開戦前に石宮旅館に泊まった士官は、九軍神の中の4人(岩佐・横山・古野・広尾)を初め、捕虜第1号となった酒巻和男さん、シドーニ・マダガスカルを攻撃した秋枝・中馬・乙坂・松尾中尉・伴少尉・訓練中事故死した神田少尉・教官の八巻大尉の12名岩宮旅館の女将は、二人の娘さんと、士官達のお世話をしたそうで、毎朝8時頃弁当を持って出て行き、夕方6時頃帰るという普通のサラリーマンのような生活だった。士官たちは訓練の内容は知らされてなかったが「近々死地に赴く身」である事はほのめかしていたと言う。軍神達はみんな朗らかで、底抜けに明るく、規律正しい好青年ばかりで夕食後、岩宮さんら家族とトランプや将棋を楽しみ1週間に一度は無礼講で酒を飲み楽しんでいたが10時になるとピシャリと止め休んだと言っていた。

軍神のリーダーであった岩佐中佐は、郷里の前橋に婚約者がいたが、休暇で帰郷した際に親にも相手にも理由を告げず婚約を破談にして帰って来た。「死んで行くのに結婚しては相手を傷つける事になるからね」と岩宮さんに話したと言う。
昭和16年11月軍神達は休暇で帰郷し、休暇があけ軍神達が帰ってきてから数日後に三机湾沖に黒い船体を見せた母艦「千代田」が突然姿を消し再び帰ってこなかった。
4ヵ月後昭和17年3月6日九人の真珠湾での戦死が報じられた。

この時はじめて三机の人々は、特殊潜航艇の訓練が三机湾で行われ、九軍神が三机から巣立って行った事を知ったのである。

以上瀬戸町教育委員会発行「三机と九軍神」から引用。

註1:九軍神と言われているが10名の士官が人間魚雷として真珠湾の米戦艦に体当たりし戦死したがその内一名は米軍情報収集を目的として潜航し生還している。戦死した士官が九名なので「九軍神」と呼んでいる。

註2:三机湾が特殊潜航艇の訓練基地として選ばれた理由は、真珠湾と地形や水深がよく似ているため海軍の極秘の訓練基地に選ばれ、昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み湾内の米軍艦隊に肉弾攻撃を行い戦死した「九軍神」が日夜猛訓練に励んだ縁の地で、昭和40年、九軍神の遺族が三机を訪れたのを機に、「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」須賀の森の一角に昭和41年8月に佐藤栄作総理の揮毫で慰霊碑を建立した。

註3:三机の近くに田部地区がある、ここに太平洋戦争末期、関東軍が満州から陸軍教育総監発令で昭和19年3月31日海上機動旅団を結成(米軍の海兵に当たる部隊)西部ニューギニアで戦死された御霊を供養する観音菩薩が建立されてる。この事は次のブログで紹介する。

註4:藩政時、この地は宇和島藩の領地で、九州諸藩の大名達が参勤交代時に立ち寄り神社に航海の安全祈願と休息に立ち寄った。また遊郭も3ヶ所あった。


三机湾に面した須賀の森(現 須賀公園)に昭和41年8月内閣総理大臣 佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が、三机から「世界の平和を呼びかける礎石とすべく」記念碑が建立された。


須画公園にある記念碑等々全体画像。


大東亜戦争九軍神慰霊碑前に建立されている九軍神の紹介・左から
岩佐直治中佐   (前橋市出身   ・海軍兵学校・65期生・戦死当時26歳)
横山正治少佐   (鹿児島市出身  ・海軍兵学校・67期生・戦死当時22歳)
古野繁実少佐   (福岡県遠賀郡出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時23歳)
広尾 彰大尉   (鳥栖市出身   ・海軍兵学校・68期生・戦死当時21歳)
横山薫範少尉   (鳥取県東伯郡出身・海軍水雷学校    ・戦死当時24歳)
佐々木直吉特務少尉(島根県那賀郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時28歳)
上田 定兵曹長  (広島県山県郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時25歳)
片山義雄兵曹長  (岡山県赤盤郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時23歳)
稲垣 清兵曹長  (三重県一志郡出身・海軍水雷学校高等科 ・戦死当時26歳)
註:説明版には、お名前と当時の階級&戦死当時の年齢が刻印されていて出身地・卒業学校名は記載されてない。・・別の資料を基に記載した。


これが三机湾で、昨日権現山展望台から撮った・・どうせ撮るならいい天気の時に撮りたかったので数日前から天気予報を見ながら昨日(2月22日)に決めた・・正解であった・国道197号線は佐田岬半島の尾根に建設しているため宇和海と伊予灘から吹き上げる風が何時も10m前後の風が吹いているが、昨日は快晴無風の絶好の天候で車を運転していても冷房がいる位の天候であった。
ここで真珠湾奇襲攻撃に備えて極秘で訓練をした湾である。・・はるか沖合いに軍港呉港がある。


真珠湾攻撃に用いられた「甲標的丁型(蛟龍)」人間魚雷と呼ばれたもので、他に物資輸送用に用いられた「特型運貨筒」等々で終戦までに230隻製造したとある。
画像は、旧海軍江田島の海軍兵学校「現在は、海上自衛隊、幹部候補生学校・第一術科学校・江田島警務分遺隊となっている」に展示している特殊潜航艇で、平成19年10月秋山兄弟生誕地研究員の研修で行った時に撮った。
全長:17.2m 直径:1.3m 安全潜航深度:250m 速力:水上 7.5ノット 水中 10.0ノット 乗員:2名と説明がある。


三机湾の上にある四国電力管理の風力発電装置で佐田岬半島に58機ある。
羽の長さが29,5mあり、風車が回転する音が結構大きく、近くの住民は騒音で熟睡出来ないと対策を申し立てていたがそのごどうなったのか??


須賀公園からみた三机湾。


瀬戸町公民館2Fロービーに展示してある九軍神の遺影と関係写真等々。


特殊潜航艇の訓練に従事した士官達が宿舎とした旅館 まつもと・・現在も営業している。


特殊潜航艇の訓練に従事した士官達が宿舎とした いわみや旅館 ・・現在も営業している。


昨日、撮影している時に出会った三机の地元の人で、三机湾を背に当時の事を話してくれました。・・途中、兄さん立って話すと疲れるので座っもいいかな・・と一言断りをして座った。・・礼儀正しい御仁であった。・・幼少時家庭での躾を見に付けておられた感じ。
御仁曰く、小学校2年生の時に急に海軍の人たちが来て騒がしくなり、特殊潜航艇の姿は見る事が出来なかった。・・浮上する時は周囲を漁船で囲み見えなかったそうだ。・・訓練もあっただろうが、それよりも呉軍港よりもここが安全なので潜航艇を隠し保管の目的の方が大きかったのではないかと語った。


藩政時代にあった侍番所跡の石碑が建立してあった。
説明には、三机港は天然の良港で古来より避難港として要港であった。
宇和島藩主が参勤交代の途中休息及び宿泊され、特に須賀八幡宮へは九州諸藩も航海祈願に参拝されるなど重要な港であった。
そのため宇和島藩は役人の他三名の下番人を置き、鉄砲、槍等々を置き常備しその治安をした。
そんな関係で出来たのでは??遊郭が3ヶ所あったそうだ。・・昨日出会った人に教えて頂いた。


画像は、四国電力が運営管理している四国唯一の原子力発電所「伊方原子力発電所」である。
最近伊方原発も、プルサーマル利用の原発が稼働しており、昨日行ってみるとプルサーマル利用反対の懸垂幕が目に付いた。・・伊方町は原発誘致で補助金・交付金が下り裕福な自治体である。・・ともすれば大事故が起こるかも知れない原発と人畜には害の無い風力発電の両面を持つ町である。

コメント (4)
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