EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

小唐人大神輿

2009年09月23日 | 伊予松山歴史散策
 先日、ブログに書いた松山地方の秋祭りに巡行する神輿の一つ、小唐人大神輿の秋祭りを迎える準備が整い、昨日三越松山店大街道入り口に鎮座されました。いま三越松山店では、「やはりお江戸・ToKYo物語」の展示即売会が行われていて、江戸文字で有名な「橘 右之助さん」も来て実演をしておられた。今年5月に東京文京区にある工房を伺いそのお礼を言って、ついでに造って頂いた黒漆のミニ消札の角が剥がれていたのを修復してもらうために預けて帰り、後日取りに行く事にした。
ちょうど音楽演奏会が行われていて懐かしい「東京」を女性三人が歌っていた。
マイペースの東京「最終電車で君にさよなら・・東京へはもう何度もいきましたね・・君の住む美し都・・」歌詞も、メローディーもいい曲で昭和50年代若かりし頃よく聞いたものだ。

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松山地方の秋祭り

2009年09月21日 | 伊予松山歴史散策
 松山地方の秋祭りは、毎年10月5日に宵宮、7日に本宮が行われる。7日早朝に道後温泉駅前で繰り広げられる八町八体(溝辺・湯之町・道後村・築山・大唐人・持田・小唐人・北小唐人)の大神輿同士の鉢合わせは道後、男の秋祭りと呼ばれていて壮観である。
今日、所用で愛媛県一の繁華街「大街道」に行った。すると大街道の小唐人大御輿に真っ赤なロープを巻いて祭りの準備をしていた。
松山地方の秋祭りは、江戸時代、松山藩政時代頃から、各地域の神社に鎮座する神々がお神輿によって氏子域へ出向いて行く御旅が行われてきた、なかでも神輿と神輿を荒々しくぶつけ合う鉢合わせは喧嘩神輿と称され城下町、松山の躍動感溢れる独特の祭り、神輿文化である。神輿が町内を行幸するさい上下左右に揺さぶる事でご神体の霊魂を揺さぶり、五穀豊穣、商売繁盛、地域産業の発展を祈願する神事を魂振りと呼ぶ。
この小唐人大神輿の小唐人とは、昭和5年町名変更で消失した町名で大街道も当時は小唐人町と呼ばれていた。
神様をお迎えする神輿の準備が出来れば祭り本番まで松山三越大街道入り口に飾られる。最近松山でも粋な姿の女神輿が出現した。神様も様変わりした様子を驚いているでしょう。担ぎ手は神輿本来の意味を知って担いでいるのだろうか???

画像は、大街道で小唐人大神輿にロープを巻き祭りの準備をする関係者
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正岡子規・松山で糸瓜忌

2009年09月20日 | 伊予松山歴史散策
9月19日松山末広町にある正宗寺で子規の命日「糸瓜忌」に子規を偲ぶ行事が行われた。
正宗寺には子規埋髪塔があり此の前で松山子規会会員らが献詠句、本堂では法要が行われた。
 子規は、慶応3年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町「現・松山市花園町」に松山藩士の長男として生まれた。秋山眞之と松山中学、東京大学予備門の同期生である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日に逝去、享年34歳の若さであった。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。また、子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。
子規の墓所は、東京都北区田端大龍寺にある。

画像は、正岡子規生誕地跡に建立されている「正岡子規誕生邸址」の記念碑「松山市花園町9番地」・・後方は坊ちゃん列車です。
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天山について

2009年09月20日 | 伊予松山歴史散策
風土記 日本古典文学体系 岩波書店
風土記逸文・伊予の国
その中に「天山」がある。下記の通り。

 風土記は、和銅6年(713年)元明天皇が諸国に命じて地名の由来や物産、伝承を報告させたが、完全に現存するのは出雲国のものだけ。
不完全ながら残っているものに常陸・播磨・豊後・肥前などがある。 伊予の場合は「逸文」としてごく一部が伝わっている。 伊豫(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊与(いよ)の郡(こほり)。郡(こほり)の家(みやけ)より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。
天山(あめやま)と名づく由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あまのかぐやま)あり。
天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に天降(あまくだ)り、片端(かたはし)は此の土(くに)に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(ことのもと)なり。(其の御影(みかげ)を敬礼(ゐやま)ひて久米寺(くめでら)に奉(まつ)れり。)
注 天山
伊与の郡・・・凡そ愛媛県伊予市と伊予郡の地にあたる。
天  山・・・温泉郡石井村天山(あまやま)にある孤立丘。
       旧久米郡内。もと伊予郡に属していた。
天山香具山・・大和三山の一つ。香具山
神代紀口訣に「風土記、天上有レ山、分墜レ地。一片伊予国天山。一片大和国香具山」とあるのは本条の記事を要記したもの。
其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。
天山の姿を絵図に描いたもの(御影)天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。

注 東北(うしとら):北東「鬼門に当たる。」

以上の事から、天山伝承を通じて香具山に親近感を持ち、昭和51年夏に松山市天山町「友の会」事務局を結成して橿原市商工観光課に香具山に関する資料と地元の様子を照会した。
それが縁となり松山市天山町の岸区長・白石事務局長と橿原市南浦町の辻本区長や福本博治・世話人の間に文通が続き、5月8日には天山町の代表25名が松山名産の姫ダルマを土産に南浦町を訪れた。・・・・の記事が昭和52年5月31日(火)の讀賣新聞地方ニュース「奈良版」に掲載された。
私が、橿原市立図書館にお願いして讀賣新聞のコピーをして頂いた。

天香具山(あまのかぐやま)は何時か橿原市に行く機会があれば撮影し紹介します。

※ なお、徳島県にも神山といゆう山があり此れも「天の香具山」「天山」「神山」は関係のある山との由

画像は、天山山頂に建立された橿原市と天山町交流20周年記念碑
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秋山兄弟生誕地スタッフ研修会

2009年09月14日 | 伊予松山歴史散策
坂の上の雲の主人公、秋山好古・眞之兄弟生誕地スタッフ研修会を今日、9月14日(月)今治市立村上水軍博物館で実施した。今日は、日本海海戦でロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(バルチック艦隊)を丁字戦法で勝利した作戦、その戦法は村上水軍が用いた戦法を参考に秋山眞之が作戦を確立したとの事を改めて博物館で勉強する事が目的であった。矢野館長さんのご講和と館内の展示を詳しく説明をして頂き約3時間の研修は終了した。秋山兄弟生誕地スタッフは毎月研修会でスタッフの知識の高揚を行っており、また年に一回は松山市以外で研修を実施している。11月29日からNHKで放映される「坂の上の雲」をご覧になり観光に来られる皆様方により内容のあるご案内が出来る様にスタッフ一同日々努力いたしています。ぜひお越し下さい。


画像は、今治市立村上水軍博物館で研修した秋山好古・眞之兄弟生誕地スタッフ
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