EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

岡山城

2009年09月30日 | 往年の名車 メグロ
岡山城

 9月26日備中高松城跡の帰りに行った。岡山城は3回目である。
明治6年廃城令が公布され168あった藩政時代の城郭は19城(天守)が明治新政府の肝要な計らいで残った。しかし先の大戦で広島・福山・岡山・和歌山・名古屋・大垣の天守は戦災で無くなり松前城天守は不審火で焼失し現在12天守が現存する。
岡山城は、明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。随所にあった堀の埋め立ては何度かに分けて行われ、こうして昭和初期頃までには城跡と見られるのは本丸のみとなった。
本段の天守は現存していれば国宝であっただろう。現在の天守は、昭和41年11月3日市民の要望で外観復元として甦った。
平成8年(1996年)築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたとの伝承から鯱に金箔を施したそうだ。また天守の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。
他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。「本来天守は、生活をする様式ではない」
かつての城は、現在の市民会館、放送局のある石山の高台にあったのを1573年宇喜田直家が今の場所「岡山の高台」に城を築いたとある。造りは織田信長が築いた安土城のような天守台が五角形で他の天守台と違っているし、石垣も野面積で安土桃山時代の様式で私が見てきた石垣の中で一番古く規模が大きい。
心配なのは、本段南面の高石垣に数箇所膨らみが出ている、膨らみが進むと修復が必要ではないか??また天守の外壁が黒いのは、戦国時代の天主(安土桃山時代は天主で江戸時代から天守と呼ばれた)の証である。姫路城の白鷺城と岡山城の烏城とよく対比される。

所見:城の見学は、一人でゆっくりと時間を掛けて見る事が必要で、複数で行くと自分の見たいところが時間を掛けて見る事が出来ない。私は何時も一人旅である。
平成18年(2006年)日本100名城(70番)に選定された
 
画像は、9月26日備中高松城跡の帰りに訪れた岡山城元天守で、昭和41年に外観復元された。日本100名城70番目、私は32番目の探訪である。
次は、香川県の高松城に行きます。


コメント
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