EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

正岡子規・松山で糸瓜忌

2009年09月20日 | 伊予松山歴史散策
9月19日松山末広町にある正宗寺で子規の命日「糸瓜忌」に子規を偲ぶ行事が行われた。
正宗寺には子規埋髪塔があり此の前で松山子規会会員らが献詠句、本堂では法要が行われた。
 子規は、慶応3年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町「現・松山市花園町」に松山藩士の長男として生まれた。秋山眞之と松山中学、東京大学予備門の同期生である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日に逝去、享年34歳の若さであった。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。また、子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。
子規の墓所は、東京都北区田端大龍寺にある。

画像は、正岡子規生誕地跡に建立されている「正岡子規誕生邸址」の記念碑「松山市花園町9番地」・・後方は坊ちゃん列車です。
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天山について

2009年09月20日 | 伊予松山歴史散策
風土記 日本古典文学体系 岩波書店
風土記逸文・伊予の国
その中に「天山」がある。下記の通り。

 風土記は、和銅6年(713年)元明天皇が諸国に命じて地名の由来や物産、伝承を報告させたが、完全に現存するのは出雲国のものだけ。
不完全ながら残っているものに常陸・播磨・豊後・肥前などがある。 伊予の場合は「逸文」としてごく一部が伝わっている。 伊豫(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊与(いよ)の郡(こほり)。郡(こほり)の家(みやけ)より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。
天山(あめやま)と名づく由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あまのかぐやま)あり。
天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に天降(あまくだ)り、片端(かたはし)は此の土(くに)に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(ことのもと)なり。(其の御影(みかげ)を敬礼(ゐやま)ひて久米寺(くめでら)に奉(まつ)れり。)
注 天山
伊与の郡・・・凡そ愛媛県伊予市と伊予郡の地にあたる。
天  山・・・温泉郡石井村天山(あまやま)にある孤立丘。
       旧久米郡内。もと伊予郡に属していた。
天山香具山・・大和三山の一つ。香具山
神代紀口訣に「風土記、天上有レ山、分墜レ地。一片伊予国天山。一片大和国香具山」とあるのは本条の記事を要記したもの。
其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。
天山の姿を絵図に描いたもの(御影)天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。

注 東北(うしとら):北東「鬼門に当たる。」

以上の事から、天山伝承を通じて香具山に親近感を持ち、昭和51年夏に松山市天山町「友の会」事務局を結成して橿原市商工観光課に香具山に関する資料と地元の様子を照会した。
それが縁となり松山市天山町の岸区長・白石事務局長と橿原市南浦町の辻本区長や福本博治・世話人の間に文通が続き、5月8日には天山町の代表25名が松山名産の姫ダルマを土産に南浦町を訪れた。・・・・の記事が昭和52年5月31日(火)の讀賣新聞地方ニュース「奈良版」に掲載された。
私が、橿原市立図書館にお願いして讀賣新聞のコピーをして頂いた。

天香具山(あまのかぐやま)は何時か橿原市に行く機会があれば撮影し紹介します。

※ なお、徳島県にも神山といゆう山があり此れも「天の香具山」「天山」「神山」は関係のある山との由

画像は、天山山頂に建立された橿原市と天山町交流20周年記念碑
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