9月19日松山末広町にある正宗寺で子規の命日「糸瓜忌」に子規を偲ぶ行事が行われた。
正宗寺には子規埋髪塔があり此の前で松山子規会会員らが献詠句、本堂では法要が行われた。
子規は、慶応3年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町「現・松山市花園町」に松山藩士の長男として生まれた。秋山眞之と松山中学、東京大学予備門の同期生である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日に逝去、享年34歳の若さであった。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。また、子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。
子規の墓所は、東京都北区田端大龍寺にある。
画像は、正岡子規生誕地跡に建立されている「正岡子規誕生邸址」の記念碑「松山市花園町9番地」・・後方は坊ちゃん列車です。
正宗寺には子規埋髪塔があり此の前で松山子規会会員らが献詠句、本堂では法要が行われた。
子規は、慶応3年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町「現・松山市花園町」に松山藩士の長男として生まれた。秋山眞之と松山中学、東京大学予備門の同期生である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日に逝去、享年34歳の若さであった。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。また、子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。
子規の墓所は、東京都北区田端大龍寺にある。
画像は、正岡子規生誕地跡に建立されている「正岡子規誕生邸址」の記念碑「松山市花園町9番地」・・後方は坊ちゃん列車です。