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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 7 松平定英(第5代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 7 松平定英(第5代藩主)

第4代伊予松山藩主、松平定直は享保5年(1720)、江戸松山藩邸三田中屋敷にて享年61歳で逝去した後、同5年(1720)10月に定直を継承し第5代藩主に就任したのは、定直の3男定英であった。
その翌6年7月に石手川が大洪水で氾濫し堤防が決壊し、流出家屋889軒・死者72人・山崩れ2万9、220ヵ所の被害が起こり、田畑の被害は甚大でその面積は3,716町歩、石高にして3万5,065石に達した。

藩は非常事態を警告し高100石について10人の人夫を出し、農、町人から2万0,000人でその善後策に当たらせたとある。
石手川沿線は城下町があるばかりでなく、流域が松山藩の穀倉地帯であったから藩庁は放任出来なかった。
定英は、この石手川の大氾濫を期に石手川の大改修工事を行う決意をし、大工事の遂行に当ててのが、西条の大川文蔵を抜てきした。(西条にも鴨川という氾濫する川を改修した実績がある)大川文蔵が手がけた改修は

1、川幅を減じて水勢を高めた
2、川底を深くした
3、河川の鎌出しを廃し、河身に直線的に突き出す曲出しを採用した

以上のような工事を行い改修をし、石手川の面目は一新され、現在見られるような立派な堤防が出来上がりその後大雨でも被害を被ることが無く、現在も堤防の決壊はない。

その後享保17年(1733)に大飢饉が起こり、藩内の餓死者は3,489人、馬が1403頭、牛が1694頭の被害でこの対策にも苦慮しながら耐え抜き藩を支えた。

定英は、苦難の藩を立て直し、若くして享保18年(1733)38歳で逝去した。
従4位 侍従 隠岐守

 画像は、松山城乾櫓で、北麓の北の郭からの登城道が本丸に達する要地に築造された。乾門続き櫓とともに搦め手を防衛する重要な構えである。築城に際し旧正木(松前)城からの移築とされている。壁は太鼓壁として中に礫を詰め天井は張らず化粧屋根裏とするなど豪放で素朴な作りから、初代藩主加藤嘉明が築造したものである。

建築時期は、慶長期、初代藩主加藤嘉明時代の建造。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。

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