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天山・崖崩れ防災対策工事完成

2019年02月22日 | 伊予松山歴史散策

愛媛県松山市は、平成31年2月1日現在人口は、510,516人で、松山市天山町は伊予松山城から南方向約、5kmの地点に位置する松山市の中心にある街である。 

天山崖崩れ防災対策工事完成
平成30年7月に発生した「平成の大水害・西日本豪雨」で被災されました方々の再建は未だ復興されていません。皆様の一日も早いご再建をお祈りいたしますとともに、今もボランティアとして活動されている皆様ご苦労様です。
広島県・岡山県・愛媛県地区では特に甚大な災害が発生し、尊い命が失われました。

全国各地の県警・消防・企業局・医師団・自衛隊・それ以外で派遣されている皆さん方の救助活動が毎日のようにTVで報道されました。
また、TVで報道されていない地区でも被害が出ました。
私の住まいのすぐ近くに奈良県の天香具山と姉妹の山「天山」があり、西日本豪雨の時、松山市石井地区の天山町に避難勧告が発令されました。

 その後松山市天山町に避難勧告が出た場所を見に行ってみると、天山神社の参道(石段115段)両側の崖崩れの兆候があり土砂崩れ避難勧告が発令されたのです。
昨年暮れから崖崩れ防災対策工事が行われ昨日完了しました。
幸い松山市天山町の天山には崖崩れは発生せず難を逃れました。

この山は、天から降り下りて来る時、途中で二つに分かれ、一つが奈良県橿原市の天香具山、もう一つが松山市天山町の天山です。
天山香具山(152,4m)・天山(50,4m)ともに、神ノ山として崇められる山で、平成の大水害・西日本豪雨の際、天山町の住民は神様のご加護があったのではないでしょうか!!
画像は、崖崩れ防災対策工事が行われた箇所です。

崖崩れ防災対策工事が行われる以前の画像。
参道入口にある社号碑は、明治時代の書家、三輪田米山の揮毫である。

崖崩れ防災対策工事が行われ完成した画像。

崖崩れ防災対策工事、右側の崖崩れ防災対策工事現場。

崖崩れ防災対策工事、左側の崖崩れ防災対策工事現場。

長い115段の石段。

天山神社参道には長い115段の石段があり上がると参道は続く。

参道から境内にかけて塵一つ落ちてなく地域の人々が毎日清掃をしている。神ノ山の神社である。

山頂にある社殿右には、大和国(奈良県橿原市)天香久山と伊予国(松山市天山町)との姉妹交流記念20周年を記念して立派な石碑が建立してある。

天香具山・天山の歌碑。

「お山の縁で歴史姉妹」の大きな見出しで新聞記事となった。

天山は、加藤嘉明が松山城築城に際して徳川家康に築城の位置について、3ヶ所の候補地を上申した1番目の場所が「天山」であった。
2番候補地が現在の松山城(勝山)で、3番候補地が御幸寺山であった。
画像上部に小高い山が伊予松山城。

慶長7年(1602年)1月15日の吉日をもって、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により徳川家康から20万石を拝領し、松山城築城第2番候補地、勝山に築城許可が下り普請が始まった。慶長8年(1603年)10月に、嘉明は家臣及び正木の住民とともに居を新城下に移し、この地を松山という名称が公にされた。
しかし城郭は短時間に完成したわけでなく、完成までに26年の歳月が掛かりその当時の関係者の努力で現在の松山城がある。
完成間際の1年前、嘉明は幕府の命で会津若松藩40万石で転封となった。

標高50,4mの天山山頂から見た伊予松山城で、松山城は天山から見るのが一番綺麗と言われている。
画像撮影レンズは、35mm判換算にすると1,365mm相当のレンズで撮影。

奈良県橿原市南浦町にある「大和国(奈良県橿原市)天香久山152,4m」である。
撮影は、日本100名城巡り時、第48番松坂城(三重県松阪市)から、第61番高取城(奈良県高取町)に移動中、橿原市南浦町にある天香久山を撮影した。

 

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