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湯築城跡(道後公園)に咲く蓮の花

2015年06月20日 | 伊予松山歴史散策
昨晩、地元TVニュースで、道後公園の掘の蓮が綺麗な花を咲かせています。・・と報道された。
以前から写真に撮りたいと思っていたので、今朝早速撮りに行った。行ってみると大勢の若者から中年の男女の皆さんが公園の清掃をしていた。何処かの奉仕団体が清掃しているものと思い、一生懸命に公園の雑草取りをしている一人の女性に聞いてみた。・・すると、私達は、愛媛県の職員で、奉仕活動として今朝8時から清掃活動をしておりますと返答があった。そうですか、ご苦労様と言葉を返した。公園の雑草取りをしている中を、カメラ持参で写真を撮るのは何か気が引けた感じがした。
現、愛媛県知事は、今までに居なかった知事で、愛媛県のトップセールスとして活躍している。
そんな姿を見ている職員もその気になって、愛媛県の全体の奉仕者として活動しているのではないでしょうか・・良い事です。
参考事項
湯湯築城は、14世紀から16世紀後半「南北朝時代から安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した。中世の城跡が市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されてますが、この湯築城は戦国時代のタイムカプセルの様に現存している事が重要な史跡で日本でも此処だけである。
発掘調査は昭和63年から平成10年に掛けて行われ、特に県立道後動物園があった所に限り学術的な発掘調査がされその成果に基づいて文化財を生かした整備を行い、平成14年4月12日に武家屋敷2棟・土塁・道路・排水等の立体復元や平面復元が完成し一般に公開開始した。また、平成14年9月に国指定史跡「湯築城跡」に指定された。広さは、外堀を含む南北350m・東西295m・面積8,6ha(8町6反)で東京ドーム1,7倍の広さがあり丘陵の高さは31mある。中世の城としては珍しい平山城で、攻めるには攻めやすく、防御するには大変困難な城である。
平成18年、日本100名城(80番)に選定された。


湯築城跡(道後公園)入口に表札がある。
天正15年(1587)、福島正則が湯築城最後の城主である。
国指定史跡は、平成14年9月20日、に指定された。
平成18年4月6日、日本100名城(80番)に選定された。


湯築城跡の内堀で、沢山の蓮が自生している。


蓮の花をアップに撮ってみた。






湯築城跡(道後公園)を愛媛県の職員が懸命に雑草取りをしていた。湯築城跡は、愛媛県の管理下にあり、松山城は、松山市が管理している。


愛媛県の職員が懸命に雑草取りをしていた場所に画像の、「秋山好古の騎馬像」と「秋山眞之立像」があったが、昭和19年、大東亜戦争の時金属供出として取り壊された。銅像は、昭和12年建立された。


湯築城跡(道後公園)の雑草取り終了。県職員、本日のリーダーが終了の挨拶を行い、三々五々職員は帰って行った。・・ご苦労様でした。湯築城跡は道後温泉近くにあり、多くの観光客が来られるので清掃は肝要である。参考に、昨年道後温泉に来られた観光客は、110万3200人。


湯築城跡、山麓にある湯築城の由来の説明板、材質は砥部焼である。
湯築城にあった石垣の石は全て、慶長7年(1602)1月15日松山城築城の際使われ一つも残っていない。


湯築城跡南面で、平成14年11月27日、マンション7Fに上げて頂き撮影した。


湯築城資料館にある「湯築城の模型」。
右上の建物は「松山市立子規記念博物館」。


奥に見えるビル街は、道後温泉ホテル街、手前が湯築城跡。


湯築城跡内にある案内図。
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