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秋山好古揮毫石碑紀行 14 西条市丹原町の碑 

2015年12月01日 | 伊予松山歴史散策

西条市丹原町得能・常石山城跡にある好古が揮毫した得能通綱の忠魂碑で、周囲は石柱で囲われており、正面の石柱に、御大典記念・昭和3年と書かれている。

1.碑  文 :  忠魂碑
2.所 在 地: 西条市丹原町得能 「常石山城跡」
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 昭和5年  
6.碑石大きさ: 高さ・2m00㎝  幅・1m33  

参考資料:常石山は、標高163,4m・麓から徒歩約20分、河野通信の子通俊の領地が、丹原得能にあったので通俊は得能を名乗り、その城を常石山に定めた。常石城主得能通綱(通俊の孫)は周桑の人々を卒いて勤皇の兵を挙げた。
同じ河野氏から出た土居通増と連合して、北条時直の大軍を星の岡(松山市星岡町)で大破した。
得能通綱は、1337年3月6日北国、金ヵ崎城で新田義忠と共に足利尊氏軍と戦い壮烈な戦死をした。
昭和3年の御大典記念として山頂に通綱公の忠魂碑が建った。
建立には、得能の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げた。
好古もこの地を訪れ馬で常石山を登ったそうです。(この時好古は、右足の動脈閉塞症がはじまっていた。それは飲酒により糖尿病が原因だった。本人は神経痛位に感じていたのでしょう。)足の痛みがあり山を登るのは大変だったのでしょう、この事を思い地元民は馬を用意した。


立派な西条の青石で造られた忠魂碑


揮毫した秋山好古を切り取っての掲載


忠魂碑の裏面に得能通綱が活躍した事柄が書かれている


忠魂碑の裏面全容


得能通綱の忠魂碑で、周囲は石柱で囲われており、正面の石柱に、御大典記念・昭和3年と書かれている。その一つ「御大典記念」の石碑


得能通綱の忠魂碑で、周囲は石柱で囲われており、正面の石柱に、御大典記念・昭和3年と書かれている。その一つ「昭和3年」の石碑


西条市丹原町得能地区の麓から常石山城跡に上がる登山道、この道を老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げた。
好古も馬で登り自分が揮毫した石碑を見たのだろう。


常石山城跡にある忠魂碑の所在を案内して頂いた地元郷土史家の黒河さん。(右の方)
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