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昭和20年7月26日、松山大空襲から69年

2014年07月24日 | 伊予松山歴史散策
今年も7月26日が遣って来る。69年前松山大空襲の日である。
松山市主催の平和資料展が本日24日(木)午後1時から松山市総合コミュニティセンターロビーで開催された。7月30日(水)まで展示される。
松山は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が松山を爆撃し一瞬にして焼け野原となった。
昭和20年7月26日は、松山大空襲の日であるがその前後、14回の空襲を受けている。
それは昭和19年海軍松山航空隊に、源田 実海軍大佐率いる当時日本海軍最強部隊が居たためである。
海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山がいいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうだ。(源田 実は、戦後国会議員となり、またノンフイクション作家として海軍航空隊に関する多くの著作物を出版している。また、松山航空隊三四三航空隊を源田実の事実に基づいた映画が製作され、主演は確か三船敏郎だったと思う)
 源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍の優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達、そして紫電改の訓練を始め、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊が松山に居た。
 三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。
しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、昭和20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た、紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。
この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうだ。
 この時私は6歳だったがグラマン機との空中戦の様子が記憶にある。
 米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、日本海軍は紫電改を製機した。
しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいた。
 このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550K(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンが必要であった。
 それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であった。
 米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうだ。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)
 昭和20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。
 その後松山大空襲があった。
時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。
 これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
 但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが焼夷弾を投下され城門櫓が焼失し、本壇にある連立天守中庭に焼夷弾が投下され天守一部が焼けだしたが住田監守の命がけの消火活動で消し止め国宝松山城天守は残った。
 東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事であった。
無謀な戦争をしたものだ!!親父もニューギニアで戦死、未だに密林で眠っている・・遺骨は我が家には帰ってない。


本日24日(水)午後1時に展示開館された「平和資料展」のチラシ。


会場にはマスコミ関係者が取材に来ていた。


海軍・陸軍の軍服と当時の国防婦人会が着ていた物が展示してあった。


保存状態の良い「千人針」が展示してあった。此れを持って祖国の為、家族の為に戦い元気で生還する事を祈り出征したのでは??


臨時召集令状、展示場には複製と書かれてあった。俗に言う赤紙、この令状一枚で戦場に駆り出された。惨い事である。


「平和資料展」会場3Fから撮りました。


米軍が松山攻撃する前に偵察機で空撮情報収集、鮮明に映っている。中央が伊予松山城。写真は、米国立公文書館提供。


海軍松山航空隊基地、・・現在の松山空港。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」の表紙と裏表紙。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P12・13の記事。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P14・15記事。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P4・5記事。

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