令和元年5月に雄山閣から出版された書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」が静かに注目されている。
書籍は、252ページで18名の皆さんが執筆されている。その内個別タイトル「秋山好古と新潟の人びと」が注視されている。
秋山好古には優秀な副官が居り、中でも最も信頼した副官3名が居た。
豊邉新作・建川美次・山内保次で越後新潟の人達である。
中でも最も信頼した副官が豊邉新作で、新潟県長岡の出身、騎兵第14連隊初代連隊長である。
豊邉新作の軍歴
騎兵第14連隊初代連隊長(明治34年6月20日~明治39年2月23日)
文久3年(1863年)越後 長岡藩(新潟県・長岡市)・5月生まれ。
明治13年、 陸軍士官学校入学
明治15年、 陸軍士官学校卒業・騎兵少尉となる
明治16年1月、 東京鎮台騎兵第1大隊付
明治18年、 騎兵中尉、東京鎮台司令
明治19年5月、 教導団騎兵中隊小隊長
明治23年10月、 騎兵大尉 第1大隊付
明治27年 日清戦争従軍
明治37年 初代騎兵第14連隊として日露戦争従軍
明治41年4月、 少将・騎兵実施学校長 騎兵第4旅団長
明治43年、 欧州派遣・中将に昇進
昭和2年2月19日、逝去 享年66歳
騎兵最強の連隊は、騎兵第13連隊・14連隊・15連隊・16連隊で、現在の千葉県習志野にあった。
この連隊平時は、近衛師団に所属するが、有事となると騎兵第1旅団(騎兵第13連隊・14連隊)、第2旅団(騎兵第15連隊・16連隊)に編成され戦場に向かう事になっていた。
現在、騎兵第13連隊跡は、東邦大学習志野キャンパス、騎兵第14連隊跡は、日本大学生産工学部である。
15連隊跡は東邦大学付属東邦中・高等学校で、16連隊跡は更地である。
日露戦争当時豊邉新作は、秋山好古率いる騎兵第1旅団で、騎兵第14連隊長・豊邉支隊長(大佐)として激戦地である黒溝台合戦で、ロシアの主目標だった沈旦保を、最も信頼する豊邉新作に死守させ猛攻をしのいだ勇者である。
豊邉新作の父と、長岡藩上席家老で最後のサムライと言われた「河井継之助秋義」は従弟同士で、豊邉新作は越後人特有の頑固で粘り強い性格であった。
明治41年4月少将・第五代目、騎兵実施学校長に就任している。なお秋山好古は第二代目騎兵実施学校長である。
豊邉新作は、日清戦争終結後、予備役になるのではと思っていたところ、日露戦争が勃発、秋山騎兵第1旅団長から、重要な任務を与えられその職務を全うした。
豊邉は人を押しのけ、踏み台にしてまで昇進しようとは思わない人柄で、秋山旅団長はそんな控えめな人柄と真面目で実直な豊邉新作を最も信頼していた。
秋山好古も人を押しのけ昇進しようなどとは一切行わない性格である。
その証拠に大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大正天皇は驚かれ特旨として官位・従二位を与えた。・・これは辞退するなと言われたそうだ。
大正13年4月、故郷伊予松山から北豫中学(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長就任依頼があり、これを快く受諾し単身で松山に帰り昭和5年3月まで務めた。
松山での生活の場所は、現在の秋山兄弟生誕地である。
この時、東京の人達は「秋山は馬鹿な男よ、元帥を辞退しそれも田舎の中学校の校長になるそうだ」と、馬鹿呼ばわりされたそうだ。
官位従二位を持つ教師は秋山好古只一人で誰も居なかったし、現在も居ない。
現役の陸軍大将が中学校の校長に就任するのも前代未聞初めての出来事であった。
秋山好古は、軍人になる前は教師をしていた。大坂師範学校を卒業生して名古屋師範学校付属小学校の教師であった。
母の教え(躾)で、大きくなったら「世のため・人のため・故郷のためになれる人間になるようにと厳しく躾育てられ母の教えの通り人生を送った。」
さて、少し横道に外れたので本題に帰る。
静岡市に秋山好古と豊邉新作、二人が揮毫した石碑がある。この項の後半に紹介する。
陸上自衛隊習志野駐屯地にある「空挺館」に開示してある歴代の騎兵実施学校長の写真で、豊邉新作は明治41年4月少将・第五代目、騎兵実施学校長に就任している。なお秋山好古は第二代目騎兵実施学校長である。
令和元年5月25日付で刊行された書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の表紙。
表紙、秋山好古のカラ―仕上げは、昭和11年11月1日、発行された伝記「秋山好古」の表題紙の次のページにある白黒の秋山好古の写真を基に、習志野騎兵旅団史跡保存会会長・三橋正文氏が画家、丸山画伯に依頼して手書きで書き上げた力作で現物は、習志野市大久保商店街資料館に展示と松山市の秋山兄弟生誕地武道場に掲示してある貴重な2枚だけのカラー仕上げの肖像画である。
書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の目次。
平成24年10月31日、秋山兄弟生誕地研究員が研修に行った陸上自衛隊習志野駐屯地・陸上自衛隊第一空挺団に保存されている空挺館(旧 御馬見所)
後列左から三人目は、秋山好古の孫「秋山家宗家第10第、秋山哲兒さん」残念ながら昨年死去された。
明治天皇が観閲された「旧、御馬見所 現、空挺館」二階にある部屋。
空挺館(旧 御馬見所)に掲示されている、西 中尉の雄姿」で
ロスアンゼルスオリンピック馬術で金メダル獲得。
空挺館(旧 御馬見所)の説明版。
陸上自衛隊習志野駐屯地・空挺館前に建立されている、秋山好古揮毫の「軍馬慰霊之碑」がある。秋山好古が北豫中学校長を昭和5年3月辞任し家族が待つ東京に帰り同年11月4日逝去した。享年72歳であった。
軍馬慰霊之碑は、同年10月5日、好古の揮毫でこれが絶筆となる。建立は昭和5年11月である。
豊邊新作は、大正6年5月15日付けで騎兵監となる。(騎兵監は、教育総監の隷下にあり騎兵に関する人事・調査・研究を担う役職で豊邊新作は、好古の後任である。)
画像は、秋山好古と新潟の人びとより引用。
秋山好古と豊邉新作、二人で揮毫した石碑で、秋山好古が揮毫して建立されている石碑は、全国に52基あるが、二人が揮毫し建立されている石碑は、静岡市葵区羽鳥、洞慶院にある非常に貴重な珍しい石碑である。
揮毫は、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が、題額「忠魂」を秋山好古が揮毫
陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古 「忠魂」篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作 「愛馬追悼碑」題書
建立年月日: 大正 8年 4月 3日
石碑大きさ: 高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝ 厚み 13㎝
秋山好古 篆書・豊邊 新作 題書とあるが、篆書(てんしょ)とは、 石碑
などの上部に篆書体で書かれた題字の事である。
秋山好古が篆書体で「忠魂」と揮毫して、豊邊新作が題書として「愛馬追悼碑」
を揮毫しておる。
石碑建立の由来:
これからは、私の独断と偏見事項である。
建立者、三浦金蔵は静岡市の出身で愛馬が死去し、愛馬追悼碑を建立するに当たり、揮毫を直属の上司であった豊邉新作に願い出た。豊邉は、私などが揮毫するのは恐れ多い事、私が秋山好古大将にお願いしてみようと、揮毫を依頼した。
好古は、豊邉君が揮毫してやればと辞退したが、揮毫をするしないの押し問答、それでは二人で揮毫しようとなり、題額「忠魂」を秋山好古が・題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫したのではないかと私の勝手な推察である。
洞慶院住職の談話:
建立者・三浦金蔵は、静岡市の出身で実家は薬局を営んでいた。
記念碑建立の由来は、住職の代が変わっており不明いとの由、裏面に建立の経緯が刻印してあるが風化激しく判読困難である。
もし判明したら後日連絡しますと約束して頂いた。
陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古が揮毫した「忠魂」
愛馬追悼碑裏面には、石碑建立の経緯が刻印されているが、風化が激しく文字の判読が困難で、洞慶院住職も前住職時代の事で詳細は不明です。後日調べて分かりましたら連絡しますと言って頂いた。
私が、静岡市葵区羽鳥、洞慶院に取材に伺ったのが平成19年5月16日、同年11月に静岡市教育委員会から石碑裏面に書かれている文面が送られて来た。
それが、漢文で書かれた画像の文面である。
静岡市教育委員会から石碑裏面に書かれている解釈文面である。
註:画像の解釈文は、新潟市江南区沢海にある北方文化博物館佐藤副館長に翻訳してもらった。
石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区鳥羽にある洞慶院の参道に建立されている。
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