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松山市の天然記念物「乳母・うば桜」

2014年03月23日 | 伊予松山歴史散策
松山市指定の天然記念物「乳母・うば桜(学名・エドヒガン)」
指定は、昭和37年11月5日
所在は、松山市南江戸五丁目 
大宝寺・本堂が国宝、指定・昭和28年3月31日。
国宝指定の本堂前にある「乳母桜」があり昨日鑑賞に行ってきた。
この桜も例年よりも開花が遅れていて上部は未だ蕾であった。
開花は、松山地方では染井吉野桜よりも少し早く開花する種類で彼岸桜の仲間
である。別名「乳母・うば桜」と言われる。
例年であれば、桜の蜜を食べに来る鶯を超望遠レンズで撮影する、プロ写真家
や、アマチュアカメラマンが大勢来るが昨日は3人だけだった。上部が開花す
る頃もう一度来ないと・・と言いて帰るカメラマンでした。

「乳母桜・うば桜」、その由縁は、昔、角木長者(すみきちょうじゃ)が子供に
恵まれず、松山の西山の麓、大宝寺のお薬師様に願かけをした。願い叶って女
の子が生まれ「露」と名附けた。大切に育ててきた乳母のお乳が急に出なくな
り、お薬師様にお願いをすると治り、その御礼に長者はお堂を建てた。
それが大宝寺の本堂だと言われている。

娘「お露」は、美しい娘に成長したが15歳の時病に倒れ、乳母は自分の命と
引き替えに娘の命をお助け下さいとお祈りした。娘お露は元気になりその祝い
の席で乳母は倒れ床についた。乳母はお薬師様との約束ですと言って、薬も口
にせず、「お薬師様にお礼として桜の木を植えて下さい。」と言い残して死んで
しまった。長者は、乳母の言葉通り、桜を本堂の前に植えた。

不思議な事に、桜は枝なしに幹から二・三輪花が咲いた。その花の色は、母乳
のような色で、花はまるで乳母の乳房のようであったと言う。・・「松山の昔話」
より引用。
この話は、16日桜でもあったが、明治時代「小泉八雲」の手で英語訳され、英国・米国で出版された「怪談」にも収められている事でも有名である。
本堂は国指定の国宝で、昭和28年3月31日指定を受け、附厨子・棟札も同
時に国宝に指定を受けている。
創建は、鎌倉時代前期と言われ愛媛県下で一番古い木造建築である。

なお、本堂西側壁に昭和20年7月26日松山大空襲の時、本堂横の池に焼夷
弾が投下されたが不発に終りその破片が壁に突き刺さっている。


愛媛県で一番古い木造建築物、国宝・大宝寺本堂前にある乳母桜は、松山市指定の天然で、昨日鑑賞に行って来たが上部の花は未だ開花してなかった。これから紹介する乳母桜は松山の昔話にあるように母乳色である。
大きさは、根回りが、2,8m、樹高・5m、樹齢250年。


乳母桜の下に建立されている天然記念物指定の記念碑。
松山市は、乳母の伝説と、優れた樹形により、古来から有名であるので指定した。


鐘楼から見た乳母桜。


大宝寺・国宝本堂の乳母桜を鑑賞しているように設置された、乳母桜像。


乳母桜は、何の混ざり物も無い、清潔感と誠実さを感じる色合いの桜で、乳母そのものといった桜です。


暫し樹齢250年の桜を観てください。






境内に角木長者(すみきちょうじゃ)の墓がある。しかし建立年の刻印はない。
石碑は古そうに見えるが・・やはり天明時代だろうか??
何時か住職にお話を聞きたいと思っています。


国宝大宝寺本堂西側にある小さな庭池で、ここに昭和20年7月26日、焼夷弾が投下された。
本堂の屋根の下の漆喰壁に黒い小さな異物があるがこれが焼夷弾の破片である。


「焼夷弾の破片」、池に昭和20年7月26日、松山大空襲の時この池に投下されたが運よく不発に終その破片が本堂の壁に突き刺さった。これも乳母が守ってくれたのでしょう。


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