満州のシンボルであった南満州鉄道の特急アジア号。
最高レベルの高速鉄道、なかでも20年の歳月を掛けて開発した特急アジア号は最高速度130キロ、平均時速82,5キロで、当時日本では最高時速であったのは特急つばめ号の最高時速95キロ、平均時速60キロだったので「アジア号」はまさに超特急であった。
私たちは昭和18年、このアジア号でハルピンから大連に移動して内地に引き上げた。
アジア号の蒸気機関車、人と比較するとその大きさがわかる。
特急アジア号の展望車。
特急アジア号の展望車内。
満鉄ハルピン中央駅。
明治34年頃の満州。
満州建国は、昭和7年3月1日東北行政委員会委員長の張景恵の建国宣言で始まった。
建国式典は同年3月9日長春市政公署で行われた。
満州の語源は諸説あり、仏名の「文殊」からきているという説が一般的で、紀元前の「満節・マンチェ」「満飾」「勿吉」「渤海」「満住」など表記はさまざまで、発音はいずれも「マンシュウ」に非常に似ている。
そしてやがて「満州」へと落ち着いたと言われている。
そして一時期満州に軍人・政府・満鉄・開拓民150万人の日本人がいた。
満州その1で大変な思いで終戦後内地に引き上げられた方々、実は、私も満州哈爾濱(ハルピン)生まれで、終戦前の昭和18年に内地に引き揚げた。
私は終戦前に引き上げたので苦労はなかったが(但し私は4歳であったので殆ど覚えてなく、これからの記述は母から聞いた事柄である。)
昭和4年3月、親父が卒業した北豫中学(現、愛媛県立松山北高等学校)で当時陸軍大将秋山好古が校長であった。(大正13年3月から昭和5年3月まで校長を務めた。)
秋山好古が校長時代に建築した体育館が現在も使われており第1体育館と呼んでいて、柔道と卓球部が使用している。
画像は、愛媛県立松山北高等学校で松山城天守最上階(標高160m)から撮影。
秋山好古は陸軍大将の肩書で、大正13年3月から昭和5年3月まで北豫中学の校長を務めた。
好古が校長に赴任してから校風ががらりと変わり、好古の教えを受けたいと言う生徒が多く優秀な生徒が入学して来た。
好古は、学業だけでなくスポーツも取り入れた文武両道の教育をした。
画像は、大正14年愛媛県中学校陸上競技大会で優勝した時の記念写真である。
同年10月1日、第1回明治神宮の競技大会が開催され中矢傳主将と藤野彪が出場した。
秋山好古校長は、大阪高等師範学校(現、大阪教育大学)を優秀な成績で卒業し名古屋師範学校付属小学校の教師を経て、明治10年陸軍士官学校に入学し軍人となった教育者で、陸軍大学校の一期生である。そして大正9年12月28日、教育総監兼軍事参議官に就任している。
好古は、教師として世に出て、軍事を経て最後も教育者として人生を全うした。北豫中学校長時代は子供と奥さんを東京に置いて、自分は一人で松山に帰り(現、秋山兄弟生誕地で)生活し故郷の青少年の教育に尽力した。
時には、学業熱心な生徒たちを自宅に招き会話をした。
しかし軍人時代の話は一切しなかったそうだ。
また職員会議の時には先生たちから軍人時代の話を要請されても一切話はしなかった。
全国中学校校長会議が東京で開催される時には何時も上京し謙虚な態度で、少しも陸軍大将だなどという顔をせず、他の校長と終始同僚として接したとある。
幼少時代に母の教えとして、大人になったら「世のため・人のため・故郷のために尽くせる人間になるようにと躾けられた」まさに母の教えの通り生き抜いた秋山好古であった。
北豫中学校の卒業證書、秋山好古校長の肩書が凄い。
特に官位従二位は、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、驚いた大元帥(大正天皇)はビックリされ、特旨として官位従二位を与えた。
いまでかって大学の総長、学長、高校の校長も官位従二位を持った方々はいない。
秋山好古校長に憧れた私の父は関東軍の軍人となった。・・のではないかと私は思っている。
画像は、関東軍独立守備隊歩兵第30大隊第1中隊の集合写真で、親父は前列右から9人目(※印)。
画像は、関東軍独立守備隊歩兵第30大隊第1中隊第2小隊の集合写真で、親父は前列左から1人目(※印)。
関東軍第822部隊、准士官下士官団員一同、昭和19年3月16日撮影。
親父は、右から7人目。
この後、海上機動部隊第2旅団の一員として昭和19年4月12日大連から南太平洋に出動して行った。中には親父同様戦死して帰らぬ士官もいる。
結婚の為ハルピンから親父の実家(愛媛県温泉郡久米村大字福音寺、現、松山市福音寺町)
に帰り結婚、その時の結婚記念写真。
父親、29歳、母21歳の時。昭和13年7月27日撮影。
父親、30歳、母22歳の時。昭和14年1月、於ハルピンで撮影。
父は、5年後の昭和20年4月28日、35歳の時ニューギニア島北岸作戦の重要な任務を命じられ敵情報収集、斥侯隊長として活動中敵と遭遇し敵銃弾を腹部に受け戦死、一緒に同行した隊員5名は負傷したが無事本体に帰還し敵情報を基に作戦は成功したそうだ。
親父は未だにニューギニアの密林奥深い場所で眠っている。
親父の遺品は親指の爪のみが親父の実家に届けられた。
斥侯隊員は、中隊の中から強健精兵の、野条曹長・松村軍曹・赤松伍長・木田伍長・野村兵長・塩田上等兵と隊長親父(中尉)であった。
愛媛県保健福祉部にある父の陸軍履歴書には、下記の事柄が記載されている。
昭和19年3月15日、海上機動第二旅団第三大隊付
昭和19年4月12日、大連港発
昭和19年5月10日、ミンダナオ島ザンボアン上陸
昭和20年4月28日、中尉・ニューギニア島サラワテイにて戦斗中戦死とだけ記載されている。
私が2歳の時、ハルピンで撮影。
私の父は、秋山好古に憧れ軍人になったのではないかと私は思う。
父は、昭和4年3月北豫中学校卒業後、日本陸軍歩兵第80連隊に入隊、その後歩兵第38連隊付、独立守備隊歩兵第30大隊に転属した。・・いわゆる関東軍である。
それで私は満州ハルピンで生まれたのである。
画像は、私が3歳の時、軍用犬「ハル」と一緒に撮影。
この軍用犬の事は何故か覚えているが、他のハルピンの事は何も覚えていない。
軍用犬「ハル」は我が家と、隣の稲葉士官(熊本県出身)との二所帯の官舎を警護する為にいた。
軍用犬ハルが移動できるように8番線の大きな針金に鎖を繋ぎ移動できるように仕組まれていたそうだ。
私と母、2歳の時、於:哈爾濱(ハルピン)神社で、設立は昭和10年3月9日。
昭和17年7月関東軍の慰問に大相撲がやって来た。
満州皇軍慰問巡業で、力士はそうそうたるメンバーで、双葉山・羽黒山・照国など母親は私しに巡業を見せるために連れて行き私は見ているはずだが残念ながら全然覚えていない。
これから紹介する書籍は、日本陸軍が初めて編成した海上機動兵団の「続編・海上機動兵団第ニ旅団」の書籍表紙でページ619、装丁も布製の立派なクロス張り仕上げである。
この書籍は、昭和53年8月15日刊行された非売品で、発行編纂委員長、森田政吉氏も海上機動兵団、第2旅団の兵士であった。
執筆されている方々は無事生還された兵士の皆さんが記述され、母国の為名誉な戦死をされた兵士の思いも籠めて書かれている中身の濃い書籍である。
松山市立花町5丁目に在住されていた森田政吉氏が、巡部隊史編纂委員会を設立され発行され、委員会委員長森田氏の住まいが我が家と近くの関係で寄贈して頂いた貴重な書籍である。
愛媛県立図書館、松山市立中央図書館にも所蔵されていない。
「続編・海上機動兵団第ニ旅団」。
運命の海上機動兵団の目次の一部。
編集委員長、森田政吉さんが編集発行された「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の編集後記。
書籍「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の奥付。
この書籍は、「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の編纂委員長である、森田政吉氏の了解を得てそれを基にして書かれた書籍「南太平洋最前線」で、著者は「奥村明光」氏、昭和55年8月5日初版で、同年9月15日第2版が発売された。
叢文社発行、定価1500円であった。
書籍「南太平洋最前線」の一部で、親父が関わった「北岸作戦」の記事その1である。
書籍「南太平洋最前線」の一部で、親父が関わった「北岸作戦」の記事その2である。
海上機動兵団第ニ旅団が関わったニューギニア周辺の地図。
書籍「南太平洋最前線」の奥付。
この書籍も愛媛県立図書館、松山市立中央図書館にも所蔵されていない。
私は、昭和59年5月2日、紀伊國屋書店松山店で注文し入手した。
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