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秋山兄弟生誕地、研究員研修・海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)

2018年07月10日 | 伊予松山歴史散策

画像は、海上自衛隊幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校生徒館・通称赤レンガ)。

 秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている、研究員各位は毎年県外研修を行い研鑽している。

今年度の研修地は、広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)で7月4日(月)に実施した。

研修でお世話ななった広報担当の海上自衛隊員による適切なる案内と、教育参考館で詳細な説明を受け新たな知識が習得出来た。

前回、平成19年10月29日に伺った時は、教育参考館が改装中で重要な資料を見る事が出来なかったが、改修工事も完了し、案内をして頂いた広報担当海自隊員の素晴らしい説明で最高の学習が出来た。

これから全国から秋山兄弟生誕地にお越しになられる皆さん方を新しい形でご案内出来る事を確信した。

画像は、第1術科学校学生館。
海上自衛隊幹部候補生学校舎(通称赤レンガ)の西隣にある建物で、兵学校西生徒館として昭和13年に建てられたが、昭和31年、横須賀にあった術科学校がここ江田島に移転し、現在第1術科学校学生館として使用されている。
もともとはクリーム色の3階立ての建物だったが老朽化に伴い、平成10年から全館改築し、真新しい現在の建物となったと説明を受けた。

大講堂。

鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年に兵学校生徒の入校式、卒業式また精神教育の場として建築された建物で、外壁には瀬戸内海産の花崗岩を使い、内部はほぼ吹抜けとなっており、約2000名の収容能力があり、90年以上経った今日も、変わらぬ姿で建っている。現在は幹部候補生、第1術科学校の学生等の入校式、卒業式等儀式に使用している。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲のロケにも使われた。

 

大講堂の内部。

入出時には、脱帽・一礼する。

広報担当の海自隊員から説明を受ける秋山兄弟生誕地研究員。

海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長先生が大講堂で秋山兄弟生誕地の研究員各位を笑顔で迎えて頂いた。

中畑康樹学校長は、愛媛県立松山東高校卒で秋山眞之の後輩になりで迎えは特別な計らいであった。

今年3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭に際し、秋山兄弟武道館で特別講演をして頂いた。

3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭を記念し、秋山兄弟武道館で特別講演をされる海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長。

3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭で、皆さんのご要望により、秋山眞之胸像横に立たれて記念写真撮影された海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長。・・この時も笑顔が絶えなかった。

中畑康樹学校長と記念撮影です。

中畑康樹学校長は何時も絶やさぬ笑顔が素晴らしい。

海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校生徒館・通称赤レンガ)。

通称「赤レンガ」と呼ばれ有名な、幹部候補生学校校舎、明治26年に海軍兵学校生徒館としてその生活、教育のため建築された。
設計は、東京築地にあった兵学校も手がけたイギリス人建築家によるもので、屋根は建築当初は日本瓦葺であったが、明治38年の安芸灘地震後にスレート葺に葺き替えられた。大切な生徒を親御さんから預かり、瓦が落ちて怪我をさせては大変だと言う事で葺き替えられた最大の理由だそうだ。

レンガは英国製で、一つ一つ紙に包み軍艦で輸送、現在の価格に換算すると一個が一万数千円に値するそうだ。明治26年に建造され使われているレンガの色は殆ど変わっていないと説明があった。・・一説には日本製のレンガも使われているとか?です。

海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎の裏側で、表とは全く違った様子である。

赤レンガ校舎の(幹部候補生学校舎)の廊下。

この砲台は、戦艦「陸奥」の4番主砲として搭載されていた40センチ砲で海軍兵学校生徒の教材として昭和10年移設されたそうで、終戦後GHQに接収された時期があった。

戦艦「陸奥」の4番主砲この位置から西方向に発射すると山口県岩国市にある錦帯橋までは届くそうです。

武道館。

海上自衛隊第一術科学校の武道館で、学校内の建造物の中、唯一の日本風建造物である。

この日は剣道の錬成をしていた。

水交館。

明治憲法公布の前年、明治21年に「集会所」として建築され、江田島地区で現存する最も古い建築物。以後、「文庫館」、「図書館」、「会議所」、「将校集会所」使用目的で名称変更しながら、終戦まで使用されたと説明があった。
終戦後、進駐軍接収時には、牧師等の宿泊所としても使用されたが、海上自衛隊に返還後は「水交館」と名称し国内外の来賓の接遇等に使用しているそうだ。

水交館の庭で、坂の上の雲のロケにも使われた。

水交館には何故か沢山の灯篭が設置してあった。

教育参考館横には、日清戦争で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の主砲砲弾、その右に戦艦大和の主砲砲弾、そして昭和16年、真珠湾攻撃に使用された特殊潜航艇5隻の内の1隻が展示されている。

教育参考館。

海上自衛隊第一術科学校内の撮影は許可されているが、教育参考館内は撮影禁止であった。防止の着用も禁止である。

教育参考館入口には「脱帽・禁煙・館内撮影禁止・携帯電話禁止・飲食禁止」の掲示板がある。

建物は、ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造の2階建て、この教育参考館は、先輩の偉業を偲び、「温故知新」によって自己修養と学術研鑽の資とするため、兵学校卒業生の積立金及び一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936)に建築されたそうだ。
 教育参考館には、戦前約40,000点の歴史的資料が保存されていたそうだが、終戦時、一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した他は、進駐軍による没収を恐れ焼却処分とされたとある。
 現在は、返却された資料等約16,000点を保存しており、そのうち約1,000点を展示しているとの由。
 主な展示資料・・勝海舟の書・広瀬武夫中佐の資料・特別攻撃隊、関行男の資料・特攻隊員の遺書・横山大観画伯の富士を描いた「正気放光」・秋山好古の書「自学自活」・秋山眞之が描いた「鯉の滝登り」、等がある。年間約7万人の見学者が同館を訪れているそうだが、特にNHKスペシャルドラマ坂の上の雲が放映された3年間は見学者が多かったそうだ。

今回最大の研修場所である教育参考館で、前回は改修工事中であった。

教育参考館は、昭和時代宝物館と言っていたし、展示資料や展示方法が大分変更していた。

昭和40時代に一度見学しているが、その時専任で案内をされていた人が居られた。

その方は、旧海軍特別攻撃隊員で生存者の方で、生き残った自分の命を何か役に立てたいと思い、お願いして宝物館の案内人として説明をさせて頂いていますと語られたのを覚えている。その方の説明を受けると見学者の殆どが涙を流しながら聞き入っていた。

特に印象に残ったのが、愛媛県西条出身の特別攻撃隊、関行男の説明で、外国人は関行男の遺影の前に来ると暫く移動しなかった。この顔は日本海軍が作り上げた顔であると言われた。・・との説明を受けた言葉が未だに頭の隅に残っている。今回、関行男の遺影を見たが小さかった。以前はもっと大きかった印象がある。遺影を小さくしたのか?

研修も予定の日程は終了し退出する研究員。

NHKスペシャルドラマでもロケが行われ、秋山眞之を演じた本木さんも一日体験学習をされ一泊された。

海軍兵學寮跡の石碑

碑 名:海軍兵學寮跡・海軍軍醫學校跡。

所在地:東京都中央区築地五丁目1番1号・国立ガンセンター内。

画像は、平成17年9月12日、国立ガンセンター管財課の許可を得て撮影した。

海軍兵学校の起源は明治2年創設の海軍操練所で、翌年海軍兵学寮と改称、さらに明治9年に海軍兵学校と名前を改めた。明治3年海軍兵学寮に入学した生徒から第1期生とした。

明治16年東京で初めての赤煉瓦造りの生徒館が落成、この建物は東洋一大きな2階建ての堂々たるもので、あと海軍大学校の校舎となる。

明治21年8月13日兵学校は江田島に移転する。

秋山眞之、「第17期生」で、広瀬武夫は江田島に移転した最初の卒業生で、「第15期生」・山本五十六は「第32期生」・関行男は「第70期生」・源田実は「第52期生」である。

 

海軍兵學寮跡記念石碑の裏面。

海軍兵學寮跡記念石碑の後ろは、首都都心環状線外回り銀座入口ゲートで防御用の金網があり写真撮影は難しい。

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した。神風特別攻撃隊第一号隊長である関行男中佐の慰霊碑。

23歳の若さであった。

昭和50年3月、愛媛県西条市の楢本神社に、関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立に源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫され除幕式にも参列されたそうだ。

江田島の旧海軍兵学校の教育参考館(以前は宝物館と言っていた)に、関行男中佐の遺影が展示してあるが、外国から見学に来られた方々は、遺影の前で暫く立ち止まり微動だにせず真剣に見られ、この顔は日本海軍が作った顔だと言われたそうだ。

関行男中佐の慰霊碑の裏面で、撰文は源田実が書いた。

旧海軍兵学校全図・・海上自衛隊第一術科学校資料より引用。

 

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