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松山の句碑巡り3・野村 朱鱗洞 追記

2015年06月23日 | 伊予松山歴史散策
野村朱鱗洞の句碑

「れうらんのはなのはるひをふらせる」
「れうらん」は「りょうらん」で、「繚乱」、「撩乱」とも。花の咲き乱れるさま。「はるひ」は春の陽光のこと、花ざかりの春の明るさを詠んだ句で、大正4年(1915)4月21日の「海南文芸」に、朱燐洞が主宰する十六夜吟社4月例会での句として見える。この時、朱燐洞は数え年二三歳。この句は、後に「層雲」大正5年8月号にも掲載されている。
 この句碑は、はじめ昭和26年4月、永木町の松山城南高等学校旧校舎を入ったところに建立されたが、校舎移転に伴い、昭和56年7月、現在地に移された。朱燐洞自筆である。・・俳句の里松山より
なお、俳句の里松山には、句碑散策コース城東地区5番と掲載されているが、現在は、松山市北久米町の松山城南高等学校正門前に再建立されているから、城南コースに組み替えるべきだ。


松山市北久米町の松山城南高等学校正門前にある野村朱鱗洞の句碑。
「れうらんのはなのはるひをふらせる」の説明板、松山市教育委員会設置。


野村 朱鱗洞、明治26年11月26日 生まれ、大正7年10月31日逝去、享年26歳。愛媛県温泉郡素鵞村(現・愛媛県松山市)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)である。前号は柏葉、朱燐洞である。
父・徳貴、母・キヌの次男で、三姉一兄がいた。松山高等小学校卒業し温泉郡郡役所給仕になり、その頃から、短歌を上司の和田汪洋に学び「柏葉」と号した。明治42年より俳句に心を傾け、同年5月、17歳の時、「四国文学」創刊号に、初めて「柏葉」の名前で俳句が一句載った。河東碧梧桐とは、翌明治43年秋、松山で相識る。明治44年3月15日から俳号を「朱燐洞」と改め、同年4月井泉水の「層雲」の創刊号よりこれに参加し、5月には松山で「十六夜吟社」を結成する。明治45年2月から「海南新聞」俳句欄選者となり、森田雷死久に師事する。大正4年10月「層雲」松山支部を創立、翌5年には、「層雲」選者となり、広く活躍し、十六夜吟社を率いて松山に自由律俳句運動を展開するなど少壮の俳人として期待されていたが、大正7年の世界的な流感(スペイン風邪引)がもとで、その鬼才を惜しまれながら夭折した。その時、朱燐洞は、温泉郡郡役所書記、月俸17円であった。つつましく、口数少なく「純真で質素な生活の中にあって自分を深く生かす事を怠らず、求道者の勇猛心をもち、鋭い神経を集めた細い肉体と、深く土に喰い込んで行く強い意力の根を持っている」人であったと、井泉水は、自ら編んだ朱燐洞の遺稿集「礼讃」の序で述べている。


種田山頭火が、昭和14年10月1日、松山を訪ねて来たのは、朱燐洞の墓参が最大の目的であった。10月5日、朱燐洞の墓所が判明し、夜更け、雨の中墓参をして念願を果たした。自由律俳句運動の旗頭として将来を嘱望されながら僅か26歳の若さで逝去した朱燐洞を俳壇の啄木と評していた。
松山を終焉の地としたのは、朱燐洞を慕って来たものであり、朱燐洞没後22年目のことであった。昭和15年10月11日午前4時頃、脳溢血で自らが望んだ「コロリ往生」を一草庵でとげた。享年59歳。・・前日の10日夜、句会があり、山頭火は隣室で酒を飲み、鼾をかいて気持ちよさそうに寝ていたので起こさずに帰ったそうです。
平成25年9月30日のブログで野村朱鱗洞の句碑を取り上げたが、この度久米地区の神社探訪、辰岡天満宮に行った時、松山城南高校正門前に朱鱗洞の句碑を発見、追加としてブログに書く事にした。正岡子規の句碑は市内いたる所に存在するが、野村朱鱗洞の句碑は少なく貴重な句碑である。


れうらんのはなのはるひをふらせるの句碑がある、松山城南高等学校正門で、左側ソテツの前にある。


松山城南高等学校は、愛媛県松山市にある私立高等学校。プロテスタント系の高校で、初代校長作詞の「山路こえて」が学校の中心的な賛美歌になっている。またこれとは別に校歌がある。創立当時は夜間学校であったが現在では全日制に移行している。なお姉妹校として、同じ松山市の松山東雲高等学校がある。明治24年1月14日- アメリカ人女性宣教師・コーネリア・ジャジソン、西村清雄と共に松山市三番町に「普通夜学会」を創立。
明治27年11月、松山市永木町に移転「松山夜間学校」と改称。
昭和23年4月、松山城南高等学校と改称。
昭和57年3月:松山市北久米町に移転。


種田山頭火終焉の地「一草庵」。
平成19年松山市の「坂の上の雲・フィールドミュージアム」構想により一草庵周辺の整備が進められ、隣接する用地を取得して休憩所等の施設も整えられました。庵の庭はいつも自由に観覧できます。
また、庵の内部は、平成21年4月より毎週土曜、日曜、祝日に一般公開され、「一草庵案内人」の説明を聞いたり、ゆったりとくつろいだりすることが出来ます。松山市の委嘱を受けた「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」が中心となり、市民ボランティアの一草庵案内人や地元の「一草庵管理協力会」とともに山頭火顕彰活動が進められております。

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